三島由紀夫『鏡子の家』

 

  長編、短編を問わず三島の代表作は読んできたつもりであるが、『鏡子の家』は何故か読むのを逸してきた。たぶん、この小説は三島の失敗作だという文壇の評価がそれとなく私の読書欲を妨げてきたのかもしれない。

 だが何故失敗作か、その理由がよく分からない。ちなみに江藤淳は「自己を語ろうとしすぎた」作品であるという。いずれにしても、当該作品を読んで自分なりに評価するに如かずである。そんな気持ちでこの長編小説を読み始めた。

 

 最初はなかなか読みこなすことができなかった。

現実を観念で翻訳するようなレトリック、認識を花にように造形する比喩。簡単に言えば、回りくどい世界認識とでもいえばいいのか・・・。

そのうちに、この三島独特の文章に馴れるに従い、かえって魅了されるように読書が進んだ。

 

 本作品は三島の代表作として著名な『金閣寺』の二年後に書かれた長編小説であり、三島はこの同じ年に見合いにより高名な画家の娘と結婚している。

 鏡子という女性の家が一種のサロンとなって、鏡子とそこに集う四人の男性が主人公である。

 ボクサーの峻吉は、チャンピオンになった夜、チンピラとつまらぬことで喧嘩し、拳をつぶされ再起不能となり右翼活動に染まっていく。

 劇団の売れない俳優収は、母親の借金のかたになって醜い高利貸しの女に籠絡され、その女と無理心中をはかる。

 画家の夏雄は、絵が書けなくなり心霊主義や神秘主義の泥沼で苦闘する。

 サラリーマンの清一郎は、副社長の娘と結婚ニューヨークに海外赴任するが、やがて妻の不貞に遭う。

 鏡子は、訪ねてきた夏雄と一夜を過ごし、何事もなかったように別れた前夫と寄りを戻し平俗な日常に帰る。そしてこの物語は幕を閉じる。

 

 三島はこの自作について、次のように解説している。

「四人の主人公にそれぞれの側面を代表させることにしたのである。画家は感受性を、拳闘家は行動を、俳優は自意識を、サラリーマンは世俗に対する身の処し方を代表し」

 つまり、四人は三島の分身のような存在であることは容易に理解できる。それぞれが意識するかしないに関わらず<虚無>を背中に背負った存在である。

 例えば、鏡子は「人生という邪教、それは飛びっきりの邪教だわ。私はそれを信じることにしたの。生きようとしないで生きること、現在という首なしの馬にまたがって走る」と人生を虚無的に見下す。

 また表面的には最も世俗的な生き方をする清一郎は「青年はそういうものをつかんで、野心を成就させたいと云ったり、社会を征服したと信じたりする。青年は何と誇張が好きだろう!地球を掘ったつもりで、一塊の土くれを握って死ぬのだ」とつぶやく。エリートサラリーマンとして生きる男のなかに潜む最も強固な虚無が印象的である。三島は自分の作品の中で最も愛する人物はと訊かれ、この清一郎を挙げているのも理由のないことではないのである。

 

 このようなニヒリズムが当為であるような若者群像を考えると、私は後年の作品「豊穣の海」のラストシーンを思い浮かべないわけにはいかない。

「そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めていた。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまった」

 三島の作品はすべてこの言葉に収斂していくものであることは明らかである。

 時代的には「もはや戦後ではない」と謳われた昭和30年代、繁栄に向かう時代の流れの中で、若者の背負ったニヒリズムを濃密に描き出すとともに三島の終焉も暗示するような作品ではないかと思う。

 はたして三島の失敗作だろうか。若き日の三島の極めて真率なというより、愚直なほど心情を露呈した作品だと思う。