「作家を理解しょうと思えばその作家の全集を読め」といったのはたしか小林秀雄であるが、私もその言葉の影響を受けて若い頃全集を買い揃える傾向があった。中原中也、萩原朔太郎、泉鏡花、ボードレール、エリオット、ポー、その他全巻はそろってないが、小林秀雄、三島由紀夫、埴谷雄高などが今でも書架にその存在感を放っている。

 もちろん、ほとんどページを括くっていないものが大半であり、積読の最たるものであることは否定できない。

ただ、時々思い出したように引っ張り出して、日記や軽いエッセイの断章にふれるのはなんとも愉しい時間である。詩人・作家のもっともナイーブな面にふれるような気がするからである。

 昨日も中原中也の日記を拾い読みしていたらこんな記述があった。

 

三月十一日(金曜)   1927年

私には「人格」の観念が人々に於ける形では全然、決して全然ない。

 

 これだけではよくわからないかもしれないが、翌日にも「自己解剖なんて結局は愚劣だ。」と書いており、このことからも中也は、<私>という存在にどれだけ拘泥していたかが窺えるような気がする。むしろ強烈な自我との絶えざる相克の日々であったと理解できるのである。

詩では知り得ない生の詩人の顔を改めて彷彿とさせるのが日記というものであろう。

 

 難しいことはさておき、この日記の日から百年近くたった日が東日本大震災である。あのビルをも飲み込むような巨大な津波の衝撃はいまさらながら震撼とさせられる。復興は進んでいると思うが、2万人以上の人が犠牲になっていることを思うと胸蓋がれる思いである。

今日はその大震災の日から13年目、心から哀悼をささげたい。黙祷。