『出家とその弟子』倉田百三著 岩波文庫

 

 有名な本だが、今まで一度も読んだことはなかった。親鸞をテーマとしていることも初めて知った。

倉田百三(1891~1983)の代表作であり世界各国に翻訳されているという。

 六幕からなる戯曲で、私はそのうちの四幕から五幕および六幕を大変面白く読んだ。

 

 その四幕・五幕は、唯円と遊女のせつない恋の場面である。かえでという遊女からわたしの身体は汚れていると泣きくずれながら身の上話を聞かされるが、純粋な唯円はかたくなに女を愛し続ける。

先輩や同僚の僧から、遊女との逢引きを僧にあるまじき行為として強く咎められ、師親鸞に訴えられることになる。

 さて、親鸞はこれにどう応えたか、興味をひくではないか。

親鸞から返ってきたのはこんな言葉だった。

「私には唯円の罪を裁く自信がない。どんな罪も皆業という悪魔がさせるのだから、裁かずに赦さなければいけない」

ここには親鸞のあの悪人正機の思想が反映しているように思える。悪は人間の業と深く関わっているという思想である。

 

 六幕も深く考えさせられる問題を孕んでいるように思った。

親鸞臨終の場面である。その場には、長く親鸞から義絶されていた息子善鸞もやっと許しを得て枕元に駆けつける。だが、「仏様を信ずるか」という親鸞の最期の問いかけにも「わかりません」と応える。

こんな場面、嘘でも「信じます」と応えるのが一般的な態度というものではないか。善鸞はかたくななのか、自分の誠実さに固執したのか。長く確執を続けてきた親子に和解はもたらされなかった。私は越えられない人間の宿命のようなものを感じないわけにはいかなかった。

 

 本書には著名なフランスの小説家ロマンローランの解説もついており、「これほど純粋な宗教的芸術作品を私は知らない」と絶賛している。

翻って考えてみると、この「出家とその弟子」には所々にキリスト教が投影されているようにも感じられる。たとえば「祈り」という言葉や「隣人を愛せよ」といった言葉が散見され、キリスト教と仏教が倉田によって架橋されているように思う。

 これも倉田百三という理想主義者、普遍主義者的な思想が根底にあるからだと理解するのである。

難解なものではけっしてなく、教養という意味ではお奨めの書物ではある。