正月早々から抹香臭いことを書き続けることを許されたい。

「親鸞と道元」は五木寛之と立松和平という二人の作家の対談集である。

 五木は人気作家として絶頂にある頃休筆し、龍谷大学の聴講生として仏教を学んだ経緯がある。一方、立松は法隆寺で千年も続く行に毎年参加したりして、仏教とくに道元に傾倒、その研究にも力を注いだ。残念ながら立松は2010年62歳で早世したが、同世代の作家として心に深く残る作家である。

 両作家とも親鸞、道元に対する識見には並々ならぬものがあって、説得力があるように思う

本書において、親鸞と道元という枠に止まらず仏教とは、宗教とは何かという観点から熱っぽく語り合う。あるいは、親鸞と道元を語ることによって日本の仏教という宗教の全体像とその意味を問いかけるような対論と言ってもよい。

親鸞、道元をはなれ、「宗教は何の役に立つか」の章から二人の宗教観のようなものを抽出したい。

 

人々が政治を忘れ、宗教を忘れるような時代こそ一番平和な平穏な時代。人々が熱烈に宗教を求めるというのは地獄のような時代

 

宗教は最終的には厳粛な貌をすることだけが目的ではなくて、死を前にしても生き生きとしていられるという、そこにつながっていくのではないかという気がする。  五木寛之

 

特別感興の湧くような言葉ではない。当然といえば当然な一般的な意見であるが、仏教・親鸞に学問的に深く踏み入った五木が語るところに意味があるように思う。むしろ私はその極めて冷静な言説に五木特有の何かを感じてしまう。

 

太陽はなくて困るんですけど、月はあるかないかわからないけど、確実に存在する。月の光は万象を呑む。これが宗教の本質かな。  立松和平

 

 夜空に青く輝く月に喩え、その微かな光に包まれたいと願うのが宗教であるという。比喩を巧みに使いながら宗教の本質を衝いていると思う。

 

 ところで先日、NHK「ラジオ深夜便」を聞くともなく聞いていたら、五木寛之とWBCで監督を務めた栗山英樹が対談していた。二夜にわたって放送されたものだが私はその後半しか聞いていない。

 そこで展開された会話からは、二人の対象的なものが鮮明に浮かびあがるようだった。栗山の生真面目で熱っぽい問いかけに対して、五木は極めて冷静かつ宗教者が教え諭すように応えていた。いわく、「もっといい加減でいい」「人間は進歩していない」等々である。

後で調べたら、この対話のタイトルは「自力と他力」であった。

 五木はあくまで親鸞の「他力」を踏まえて生きているのだろうか。私のような教養のない世俗のひとりの人間としては、何故かそこに五木の虚無感・ニヒリズムを感じてしまうのだが・・・。