『親鸞』に付随して五木寛之の『歎異抄の謎』『私訳歎異抄』『はじめての親鸞』を読んだので、それらについて私なりの理解、感じたことを書く。

親鸞に関する多くの著作があることは、この作家にとって親鸞がたいへん重要な存在であることを意味するだろう。

「歎異抄は、私にとっていまだに謎にみちた存在である」と記しているが、だからこそ惹きつけられるのだと思われる。

『歎異抄の謎』と『私訳歎異抄』は著者なりに歎異抄を現代語訳したもので、『はじめての親鸞』は著者が数回にわたって行った親鸞に関する講演録である。いずれも歎異抄及び親鸞について平易にわかりやすく説いているので、なんとなく理解できそうな気になる。

 

 私はまず、法然と親鸞によってもたらされた「易行念仏」の革新性に驚く。

既存の仏教と違い、ただ念仏さえ唱えれば浄土に迎えられるという思想はいかにも斬新であったはずだ。

それまでの行で悟りをひらく、たとえば千日回峰のように難行苦行により悟りを求めていた既存の仏教界にとって驚異的であった筈だ。いや、脅威的でけっして許せるものではなかったのである。念仏が禁制となるばかりか、死罪、流刑の対象となり、法然、親鸞は流刑となった。

この革新性は、私にとって回転寿司の登場を思わせる。

私の子供の頃、寿司屋など子供が入れるようなところではなかった。庶民には高根の花であった。それが今ではファミリーそろって廉価な寿司を楽しむことができる。私の小さな孫など「まぐろ、まぐろ!」とまぐろばかり食べている。私には目を瞠る変化である。

あまりふさわしくないたとえかもしれないが、あらためて法然・親鸞の革新性を強調したい。

 

 もうひとつ親鸞の思想で避けて通れないのは「悪人正機」である。どれだけ悪いことをしても念仏さえ唱えれば悪事も許されるという思想である。これもまた革新的で・衝撃的な思想である。

 一般庶民には、悪いことをしても救われるのだから悪いことをしてもよいだろうと考える者が出てきてもおかしくない。

これを「歎異抄」では「本願ぼこり」という言葉で説明している。

この「本願ぼこり」に対して親鸞は、悪も善も自分の意志によってなされるのではなく、過去の宿業によるものであり、「本願ぼこり」の人々も往生できないわけではないと説く。

 

 「悪」の捉え方が形而上的なのである。あるいは逆説的なのでたいへんわかりにくい。

私たち人間はそれでなくても無数の煩悩を抱きつつ、他の生命を犠牲にしながら深い闇を抱いて生きる存在であり、そういう人間の業そのものを悪ととらえるのである。

良い人とか悪い人といった通念から大きく跳躍した考え方ではあるからこそ、「悪人正機」説がなかなかわかりにくいのではないかと思う。

 

私なりに理解した親鸞とその「歎異抄」である。もちろんこれだけでは「歎異抄」の百分の一も理解したことにはならない。もう少し続けてみたいが長くなるので改めて。