壁の塀をめぐらしたりして、内部には庭園というより森林に近いような樹林を持っていました。その跡地は多少は残っています。
柳澤吉保の別邸だった六義園、水戸黄門の水戸家の屋敷が小石川の後楽園、信州に高遠藩の内藤家という小さな大名がいて、そこの屋敷跡が新宿御苑ですね。江戸は都市緑地というのが基本的にあったわけです。
(『司馬遼太郎が語る日本』「偉大な江戸時代」)
江戸時代に、江戸という都市に緑地が多くあったことを司馬は高く評価するのである。といっても庶民とは隔絶した武家屋敷のことで、司馬のように評価をするのが正しいのかわからない。
むしろ現代的な意義を言うのであろう。その武家屋敷が、六義園や後楽園や新宿御苑といった形で残っていることの意義である。都心にあって都民が憩うことのできるパブリックな空間をわれわれに提供してくれているのである。これこそ江戸時代の偉大なるそして貴重な遺産であると言えよう。
後楽園(小石川自然公園)
古河庭園
新宿御苑
岩崎邸 清澄公園
まだ一万歩ぐらい平気で歩いていた頃、東京散歩と称して都市緑地というべき旧跡を訪ねたものだ。
上野の山がありました。大きくまとまった緑地でした。明治政府は革命政権ですから乱暴なこともしました。大学をつくるために上野の山の木を全部切って大学をつくるという設計図までできていました。
その設計図をオランダのボードウィンという医者に自慢げに見せると、ボードウィンは青ざめて世界中の都市は緑地をどれだけ多く置くかということで苦慮しているんだ。上野の山の、これだけ広大な地所を潰すとはなにごとかと言います。
(同上)
私は、はからずも現代の明治神宮外苑の銀杏の樹の伐採問題を想起した。どうしてあんなところに高層ビルなどを作ってしまうのだろうという思いが私にはある。
この外苑の問題に対しても「イコモス」という国際NGOから計画の撤回が要請されている。江戸時代から都市緑地が受け継がれてきたとすると、今回の神宮外苑再開発は、それを無視する愚策ではないだろうか。
外苑銀杏並木