文明と文化

 

 元旦になれば明治神宮に行きます。元旦ぐらい朝寝をしていればどうだと言っても、行ったほうが気分がいい、ということになる。

朝寝のほうが合理的ですが、元旦の朝早く出ていく非合理に従う。文化のほとんどが非合理です。

 

お母さんが若いお嬢さんをしつける

ふすまを開けるときは、いったん両膝をついて中腰になり両手で開けなさい。

これぜんぶ非合理ですね、足で開けた方が早い。

 

 『司馬遼太郎が語る日本』「裸眼でみる「文明」と「文化」」

 

 「文化」というものを考えるとき、たいへんわかりやすい例示ではないだろうか。文化というものを日常のレベルに引き下ろして、平易に語っている。

初詣や、ふすまの開け方などといった作法は文化の一つであり、文化というものはつねに非合理なものであるという。長い期間、培われた習慣や形式等をおそらく文化と呼ぶのだろう。この文化はいつも非合理であるという司馬遼太郎独特の解釈、発想である。

 

それに対して「文明」とは

 

 われわれの周りにも文明はたくさんあります。自動車教習所に行って動かし方を学び、交通信号守って運転すれば自動車文明に参加することができます。

シートベルトを締め、禁煙のサインを守っていれば航空機文明に参加できます。

 

 この文明論は、いささか日常生活に還元しすぎた単純な印象は免れないが、ユニークな定義であるように思える。文明は普遍的で合理的なものという思想が根底にある考え方のようだ。

仏教は文明であるが、お通夜や葬式は文化そのものである、あるいは文明は物質的で、文化は精神的であるとも語っており、司馬は司馬独特の発想と着目で、巧みに文化と文明を区別するのである。

 私は、難解な文明・文化論よりも、こんな司馬の文明・文化論のほうが、私たちを囲繞する世界を理解するのに役に立つと思うのだが如何であろう。