一月前のことを言うのは、「証文の出し遅れ」みたいで少しタイミングが悪いが、八月七日は司馬遼太郎生誕百年の記念すべき日であった。

そのこともあって、このところ司馬に関する本を読むことが多い。

『司馬遼太郎の歳月』向井敏著 文藝春秋と『手掘り司馬遼太郎』北山章之助著 NHK出版の二冊を読了した。

   二人の著者はそれぞれ司馬と交友もあり、並々ならぬ司馬の理解者であり信奉者でもある。両書とも司馬の著名なエピソード ―『殉死』を書いたとき神田の古書店から日露戦争関係の本がすべて消えた。司馬が買い集めたのである。トラック一台分はあったという― を織り込みながら多くの作品について、随想風に解説したものである。

   司馬には百冊以上の時代小説、全四十二冊の紀行エッセイ「街道をゆく」他、膨大な作品群があり、私に言わせると司馬という作家はあまりにも巨大で、その全容をとらえきれないぐらいである。

その点、両書とも多くの作品をまんべんなく取り上げ、司馬遼太郎とは何者か、その作品の歴史的・文明的意味を考察・分析しているので司馬の全体像が手に取るようにわかる。なるほどと合点を打ちながら読み進んだ。

 さて、私は何故司馬に傾倒するようになったか。それについて書いておいた方がいいだろう。

司馬の小説は、それまでの時代小説と違って、小説家本人が前面に登場し、その時代の評価、人間解釈を展開する面白さがあることである。司馬が歴史上の人物を描くにあたり、単なる人物描写ではなく、そこに文明批評が含まれており、さらに言えばそれらは巧みな比喩による多彩なレトリックによって語られていることである。

そんなところが私にとっての司馬の作品の魅力なのである。

一つ例を挙げよう。

 

   晋作は、一個の芝居作者であった。舞台というのはかれ自身の人生がそれである。それへ筋を書き、演出までし、しかも役者はかれ自身であった。酔狂そのものが晋作の人生の大主題である以上、やはり酔狂であった。ただの酔狂と本質においてちがうのは、晋作の酔狂には彼自身のいのちのすべてがかかっていることであった。   『世に棲む日日』

 

   高杉晋作という幕末の志士を「芝居作者」という比喩をもちいることによって、その時代と高杉晋作の存在感を彷彿とさせるのである。

   ところで、『竜馬がゆく』は、司馬の小説世界の評価を高からしめた最も顕著な作品であることは言うまでもない。坂本竜馬という一介の素浪人が、明治維新の、日本の英雄とみなされるようになったのは司馬のこの小説によるところが大であろう。竜馬にとって世界を相手に貿易をやることが夢であった、という司馬の解釈も独自性や既存の史観にはない新鮮があったように思う。

 

   次回から、こうした司馬の言葉で、なかなか含蓄がある、これは勉強になるといった、私のお気に入りの言葉を掬いだし取り上げていきたい。