昨日9月1日は、関東大震災から百年目だったので、新聞もテレビもこれを大きく扱い報道していた。

たまたま芥川龍之介の随筆集(『芥川龍之介随想集』岩波文庫)を読んでいたら、その中に関東大震災に関して書いたエッセイが何編か収録されていた。

「大震災に際せる感想」、「古書の焼失を惜しむ」「廃都東京」、など五つの文章である。

たとえば「大震と猛火とは東京市民に日比谷公園の池に遊べる鶴と家鴨とを食わしめたり」と震災後のひっ迫した食糧事情を赤裸々に描いている。(「大震に際せる感想」)

また、

「応仁の乱か何かに遇った人の歌に「汝も知るや都は延べの夕雲雀揚るを見ても落つる涙は」と云うのがあります。丸の内の焼け跡を歩いた時にはざっとああ云う気がしました」と応仁の乱を例に引いて、凄惨たる都市の壊滅を悲しんでいる。(「廃都東京」)

また、こんなことも書かれている。

「大地震の災害は戦争や何かのように、必然に人間のうみ出したものではない。ただ大地の動いた結果、火事が起こったり、人が死んだりしたのに過ぎない。それだけに震災の我々作家に与える影響はさほど根深くないであろう。」(「震災の文藝に与うる影響」)

ここには気丈というか、壊滅的な大震災にもあまり挫けていない芥川が見えてくるように思う。

 

 一方、芥川とほぼ同じ世代の谷崎潤一郎は、芥川と異なる対応をする。

谷崎は、こんな地震は二度とごめんだと思ったのか、震災後それまで住んでいた横浜から関西に転居した。(谷崎は震災時箱根にいたが、そのまま横浜の家に戻らず関西に逃れた)

よほど大震災に懲りていたのだろう、以後約三十年、神戸や京都を本拠とした。

あるいは関西の文化・風土がよほど自分の体質に合っていたのかもしれない。こんな趣旨のことまで書いている。関東には大した料理はない。草加せんべいぐらいしかないのは貧しい関東を象徴している。

谷崎も芥川同様江戸っ子である。同じ江戸っ子でも芥川は本書でも東京の下町を哀惜するようなエッセイを書いているが、谷崎は関西の料理を称賛し関東の土地柄の貧しさを指摘する。

 芥川と谷崎という日本を代表する文豪は、極めて対照的な存在だったことが分かる。文学だけでなくその生活、思想、行動に相容れない何かがあるようで、たいへん興味深く思うのである。