「司馬史観」という言葉が云々されだしたのは、右翼・保守派による司馬批判が世間に顕在化し始めた頃からであろう。その代表的なものとして『司馬遼太郎と東京裁判』福井雄三著や『司馬史観と太平洋戦争』潮匡人著などがある。その二冊をざっと読んでみた。

 それらの司馬批判をごく簡単に要約すると、『坂の上の雲』で描かれた乃木大将無能説は事実に反する。また、大東亜戦争における「海軍善玉・陸軍悪玉」説は間違っている。つまるところ、司馬は栄光と発展の明治に対する暗黒と破滅の昭和という善悪二元論に立っており、その根底にあるのは「自虐史観」であるという。

 何故か右翼・保守派が持ち出す決まり文句は「自虐史観」である。

司馬が言う昭和の十数年間は統帥権というもので異常で異胎な時代であったとする歴史観や、戦前の昭和日本は悪かったと批判するのは、すべて自虐史観としてくくられるのである。自国を滅ぼしたばかりでなく他国にも迷惑をかけたと反省するのは犯罪的な自虐であるというわけである。

 おかしくないか。反省することと自虐はけっして同じではない。合理的な思考で過去を振り返り反省することと、自らを虐げることの間には大きな径庭がある。例えば、大相撲で負けた力士が、今日は立ち合いで負けた、明日からは・・・、今日は土俵際でひいたのがまずかった・・・等反省し明日の糧にすることは自虐でも何でもない。

必要以上に自分を苛むことが自虐である。司馬の史観にどこが自虐の要素があるか。私にはわからない。

 また、団塊の世代の多くはこの自虐史観の持ち主であると決めつけている。単純な決めつけであり、偏見である。いかに当時学園紛争と全共闘運動が燃えあがったとしても自虐史観とは全く無縁の思想と心情に基づく行動である。私は体制を批判することはむしろ国を愛しているからできることで、愛国心の裏返しと考えている。

 歴史認識というものは往々にして大きなギャップをもたらすが、冷静に客観的に歴史を見ることが求められていると思う。「自虐史観」は一緒の感情論が生み出す右翼パロパガンダ用語に他なるまい。

近くの公園の小さな池に蓮の花が咲いていた。

なんとも愛らしい。