子規の文学といわれるものは、病床生活と離れがたく結びついており、『病牀六尺』はその代表的な作品である。 この雑記ともいうべき随想は、自分の俳句の自注、弟子たちの俳句批評から、身辺雑記、社会、文明批評的なものまで幅広い分野にまで及んでいる。
 
   意外に多いのは美術論である。光琳、抱一はおろか西洋美術まで言及している。 画家浅井忠とも親交をもち、自ら絵筆を握り庭の草花を写生したぐらいであるから、絵画に対する興味は尽きなかったのだろう。
  そしてまた、『病牀六尺』というぐらいで、病気の境遇やその苦衷をしばしば書き記した。
 
 病勢が段々進むに従って何とも言はれぬ苦痛を感じる。それは一度死んだ人か若しくは死際にある人でなければわからぬ。  (五月二十八日) 
病気が苦しくなった時、叉は衰弱の為に心細くなった時などは、看護の如何が病人の苦楽に
大関係を及ぼすのである。(中略)傍の者が上手に看護して呉れさえすれば即ち病人の気を迎へて巧みに慰めて呉れさへすれば、病苦など殆どわすれてしまふのである。  (七月十六日)
 
   看護が下手だと病人は癇癪を起したり、怒鳴りつけたりしなければならないので、よけいな苦痛をそえることになるというのである。かなり自己中心的で身勝手な子規の論理である。これはまた、明らかに自分が面倒見てもらっている母と妹に対するあてこすりであり愚痴なのである。
 
   ところが、この愚痴が子規独特の論理に飛躍する。「女子に教育が必要だ」という論理である。すなわち、看護には緩急が必要であるが、家の女性には家事か看護か優先順位がわかってい ないところがある、やり方にもムダが多い。つまるところ、女性に常識というものがないからそうなるのだ、と子規は考える。
 
 女子に常識を持たせようといふのである。高等小学の教育はいふまでもない事で、出来る事なら高等女学校位の程度の教育を施す必要があると思ふ。(中略)女に学問をさせて、それが何の役に立つかといふて質問する人があるが、何の役といふても読んだ本がそのまま役に立つ事は常にあるものではない、つまり常識を養ひさへすれば、それ分なのである。(七月十七日)
 
 明治の男性はこんなふうに考えるものであろうか。その理由はともあれ女性に教育が必要という思想は、この時代においては先鋭的であったのではないか。
 子規の新しさのようなものを感じるのである。子規を看護した妹律は、兄より三歳下、二度結婚し二度離婚したあと、子規に献身的に仕え半生をささげた。子規の考え方に同調したのか、自ら教育の必要性を感じ取ったのか、子規の死んだ翌年、律は共立女子職業学校(共立女子大学の前身)に入る。