3ヶ月前に中途採用で入ってきた田中くんは、いわゆる『エリート』らしいのだ。
有名大学をストレートで合格して、就職にも特に苦労はしなかったらしいが
最初の会社は肌に合わなかったとかで
半年ほどで辞めてしまったらしい。
そんな『エリート』らしい田中くんだが
未だにその片鱗は全く見えてこない。
そんな田中くんにかなりご立腹なのが
新卒採用で入社した相原さんだ。
相原さんはお洒落が好きな今どきの子。という感じで、仕事も一生懸命だし分からない事はきちんと聞いてメモにまとめておくような子で、上司としてはかなり好意的に彼女の成長を見ている。
ある日いつものように仕事をしていると
「田中さん!!!」
と相原さんの声が社内に響いた。
何事かと思いデスクを立つと
鬼の形相で田中くんを睨みつける相原さんと、なんだか釈然としない様子でムスッとした顔の田中くんが見えた。
相原さんは手に持っていた資料を田中くんの机に叩きつけ
「これ、なんなんですか!?」
と問いただす。
田中くんはムスッとしたまま
「何って…見ればわかるでしょ」
と特に説明もせず不貞腐れている。
相原さんが再び大声で怒鳴りそうなところをすかさずストップをかけた。
「ちょっと待って!一旦落ち着こう。どうしたの?」
相原さんはチラリと田中くんを見たあと
私に机に叩きつけた資料を手渡した。
「これは…昨年の売上データだね」
相原さんから受け取ったのは昨年の営業部の売上データだった。
「これがどうかしたの?」
相原さんは苛立ちながらはぁっとため息をついて
「これ、昨日田中さんにお願いしたものなんですけど、私は今年の売上データをまとめてください。って言ったんです。それなのに昨年のデータを提出するもんだから、数字が全然合わなくて昨日私と加藤さん遅くまで残業だったんですよ!」
話を聞くだけで目眩がしそうな事案だ。
どう考えても田中くんが悪いのだが、当の本人はなぜかずっとむくれている。
「田中くん…これは田中くんのミスだよね。」
思わずそう声をかけると
田中くんは「はぁっ」と短くため息をつき
「すみませんでしたー!これでいい?」
と挑発的な態度をとった。
「大体さこれくらいのことでいちいちあんな大声出さないでよ。結果、気付いて帰れたんだしたいしたことないでしょ」
とまで言い出した。
私も周りもあまりの身勝手さに呆気にとられていると
「あんたさぁ、いつも偉そうにしてるけどいい大学入っただけでしょ?その後は?正直全然つかえないんだけど。エリートだっていうからさぞ仕事が出来るんだと思ってたら、全っ然できないどころか無駄な業務ばっか増やして。あんた恥ずかしくないの?自覚ある?」
堪忍袋の緒が切れた相原さんがまくし立てるように田中くんに詰め寄った。
田中くんは勢いに圧されていたが
「底辺大学出が偉そうに!」
と苦し紛れの反撃をした。
相原さんはハッと笑い
「あんたさぁ、そのご立派な大学で何学んできたわけ?仕事もできねー、敬語も使えねー、礼儀もねぇ。底辺大学出よりつかえねぇじゃん。」
田中くんがまたも苦し紛れに
「下品な女だ!」
と、声だけは大きく言う。
相原さんはそんな田中くんにグイッと近付いて
「あんたさ、前の会社クビになったんじゃねーの?」
と聞くと田中くんの目は2倍に大きくなった。
その場にいた誰もが、相原さんの言っていることが真実なのだと気付いただろう。
田中くんは「気分が悪いから帰る!」と逃げるように帰って行ったが、当然無断で早退したことになるのでなにかしらの処分が下るだろう。
「相原さん!めっちゃスッキリしたよぉー!」と相原さんは様子を見ていた人達から口々に讃えられていた。
みんな田中くんには思うところがあったらしい。
その後田中くんは一度も出勤することなく
退職代行を頼んで会社を去っていった。
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歩美とは幼稚園からの幼馴染で
特別仲がよかったわけではないが
歩美はいつも私のあとをついてくるような子だった。
歩美は地味で、どこまでも普通の子だった。
特に可愛いわけでもなく、スタイルがいいわけでもない。
勉強も運動も全部、私より下だった。
それでもなぜか歩美は私を慕い
大人になっても度々連絡をよこしては
様々なところに私と行きたがった。
私達は幼馴染というだけで、共通点もないし一緒にいてもたいして盛り上がることもないのだが
歩美はいつも私と会いたがった。
付き合って3年経つ彼と結婚してから
まもなく歩美も結婚した。
出来ちゃった結婚だった。
歩美は大きなお腹を抱えていても私と会いたがった。
私は何度か『大変だろうから、今度にしない?』と言ったのだが
歩美はいつも『私が会いたいの!』と返事をするのだ。
歩美が出産して、お祝いを持って自宅を訪れたとき
あまりに小さいその生き物に
私はとても感動した。
「うわぁ、可愛い…」と思わず声を漏らすほどに。
小さな体をぎこちなく動かしながら
大きな口で欠伸をして
むにゃむにゃ何やら口を動かして
ずっと見ていても飽きないほど可愛かった。
歩美は「ごめんね。ボサボサで」と言ったけど
歩美はだいたいいつもそんなもんだ。
歩美の子供と会って、自分でも子供を真剣に考えるキッカケになった。
夫も賛成してくれたのだが、なかなかうまくはいかなかった。
妊活を始めて1年が経ち、自然妊娠は難しいと2人で話し合い不妊治療を始めた。
不妊治療はなかなかにメンタルがやられる。
小さな子供を見るたびに(どうして私のところには来てくれないのだろう…)と
ペタンコなお腹をさすった。
病院に行って、結果を聞くたびに落ち込んで
貯めてあった貯金はどんどん減っていった。
途方に暮れ、全てが悲しくなって何度も泣いた。
それでも『いつか』と希望を捨てられなかった。
期待とは裏腹の結果をまた耳にした帰り道
歩美から連絡があった。
『久しぶりに会いたい!行ってみたいカフェがあるの!』
私はなんだか無性に腹が立った。
人がこんなに落ち込んでる時にこんな能天気な連絡をよこすなんて!
でも、仕方ない。歩美は何も悪くない。
私は『いいよ』と返事をした。
歩美は子供を連れてくるだろうか。
そしたら私はうまく笑えるだろうか。
泣き出してしまったらどうしよう。
そんな不安を抱えながらも待ち合わせのカフェに着いた。
歩美は1人だった。
私は心底ホッとして席についた。
歩美は私を上から下まで眺め、ふと俯いて
「ごめん、ボサボサで」と笑った。
私は元からそうじゃない。と思いながら
「そんな事ない。」と言う。
歩美はどこか気まずそうにしていて、周りをやたらと気にしているように見えた。
自分の格好を気にしているようだ。
歩美は妊娠してから、やたらと自分の身なりがボサボサだと言うが私にとっては『何を今更。』としか思わない。
元々身なりに気を遣っているようには見えなかったが、自分がボサボサなのは子供のせいだと言っているようで聞いててあまり気持ちのいいものではなかった。
歩美はやたらと子供の話をした。
私は適当に相槌をうちながら、『もうやめて!』と
心の中で叫んでいた。
私が望んでも手に入らないものを歩美は持っていて
それなのに『大変だ。大変だ』とばかり言う
望んだのは、選んだのは自分なのに。
自分がうまく笑えていたかは分からない。
コーヒーを口にした時、歩美が言った。
「まぁ、でも不妊治療とかしなくて済んでよかったわ」
言葉が出てこなかった。
自分の身体が震えているのが分かる。
全身の血の気が引いた。
チラリと歩美の顔を見ると、どこかそわそわと落ち着かない様子だった。
歩美は解っている。解っていてあえてこの言葉を私に吐いたのだ。
酷い女。醜い女。
もしも私が子供を授かれたのならこんなイヤな母親になんて絶対にならない。
もう1秒だって歩美と同じ空間にいたくない。
私は急用を思い出したと言い、そのままカフェを飛び出した。
家までどうやって帰ったか覚えていない。
あまりにもショックが大きかった。まさかあの歩美が私にあんな事を言うなんて…!
怒りと失望で思い出すだけでまた身体が震えた。
夫が帰宅した頃には落ち着きを取り戻したが、今日の出来事を話すとまた涙が溢れて止まらなくなった。
夫は優しく私を抱きしめながら
「子供のこと…いったん少し休もうか?」
と提案した。
「でも!年齢的にも急がなきゃ!休んだら…もう無理かもしれない…」
取り乱す私に夫は優しく言う。
「うん。沙織との子供が産まれたらすごく嬉しいし、幸せだと思うよ。でも僕はその為に結婚したんじゃない。沙織と一緒にいたいから結婚したんだよ。1度、そこに戻ろうよ。僕たちはどうして結婚することを決めたの?」
夫の言葉にプロポーズされた時の事を思い出す。
この人と結婚することがただただ嬉しくて、ただ一緒にいたいと思った。
子供がほしいからではなく、ただ彼とともに生きて行きたかったのだ。
私は呆然としながらも、ただコクンと頷いて夫の胸の中でわんわん泣いた。
それから、私達夫婦は不妊治療を休み夫婦だけで楽しむことを決めた。
シーズンごとに2人で休みを合わせて、1泊2日程度の小旅行に何度か出かけた。
それはまるで結婚する前の2人に戻ったようで、ただ純粋に楽しくて幸せで、子供のことで悩んでいたころとは違って私の気持ちはとても晴れやかだった。
そんな日々を1年ほど過ごして、私は自然と子供を授からない人生でもいいのかもしれないと思えるようになっていた。
夫にその事を告げると少し驚いた顔をしながらも
「うん。それでいいよ。」
と優しく微笑んでくれた。
しかし不思議なことにその1ヶ月後、私は妊娠した。
あんなに望んでいたときは来てくれなかったのに…
子供のいない人生を納得して受け入れたけれど、やはりどうしようもなく嬉しいものだった。
妊娠がわかったとき、夫も泣きながら喜んでくれた。私達はどこかで諦めきれてなかったのかもしれない。
けれど、夫婦2人だけで生きていくのも悪くない。と思っていたのも事実だ。
子供は順調に育ち、春に産まれてきてくれた。
夢にまで見た我が子は今にも壊れてしまいそうなほどに小さくて、儚くて、とても可愛い。
しかし育児は可愛いだけでは乗り切れない。
慣れない育児に夫婦揃って、てんやわんやだ。
でもあの時、夫婦だけで過ごしたあの時間は宝物だったのだと思う。
髪はボサボサで、メイクもしていない私。
あの時は想像もできなかった自分の姿を鏡で見て、私はなんだかとても誇らしいのだ。
あぁ、私、子育てしてるんだなぁ。としみじみ思う。
そう思わせてくれたのは、あの夫婦時間なのだと思う。
ふと脳裏に歩美の言葉が浮かんだ。
『ボサボサでごめん』
あれはどういう気持ちで言ったんだろう。
自信無さげに笑う歩美の姿を思い出す。
今ならちゃんと『そんな事ない』と言える。
歩美が私に劣等感を抱いていることを本当はずっと気付いていた。
だから私は歩美に会うときはうんとお洒落をしていたんだ。
いつも『ボサボサでごめん』て自信無さげに笑う歩美がもっと惨めになるように。
あの時の歩美の言葉を許す気にはなれないけど、私も大概ひどい。
私達はきっとずっと鏡のようなものだったんだろう。
私達はきっともう元には戻れない。
道で偶然会ってもお互いに気まづくて、気付かないふりをするかもしれない。
前みたいに2人で会って話すなんてことはたぶんもうない。
それが寂しいのかよく分からない。
私達は歪な友達だった。
互いに歪んだ自己愛の為に傷付ける相手だったのだろう。
楽しい瞬間もたくさんあったと思うけど、きっと私達はもう会わない方がいい。
この歪な関係を続ける意味がない。
ただそれでも、今はあなたの幸せを願える。
お互い見えない場所で幸せに生きて行こう。と
送る予定のないメールに打ち込んだ。
それは言ってはいけない言葉だった。
ー…
私と沙織は幼稚園から仲がよくて
家も近所だった。
気付けばいつも沙織が側にいたし
それはお互いが結婚したあとも変わらなかった。
最初に結婚したのは沙織の方だった。
優しそうな旦那さんと柔らかい雰囲気の沙織は本当によくお似合いだ。
沙織が結婚してから3年後、私も妊娠をきっかけに結婚した。
子供が産まれてから、初めての育児で自分にかまう余裕なんてなかった。
化粧もせず、髪もセットしないまま1日を終える日が何度もあった。
ふと鏡に写るボサボサの自分の姿に涙が出ることもあった。
あんなにお洒落が好きだったのに…
そう思いながらも腕に抱いた小さな我が子を見ると、そんなことは大した事ではないと思った。
沙織はよくうちに遊びに来て
「やっぱり赤ちゃん可愛いね。私も早く欲しいなぁ。」と言いながら優しく微笑んでいた。
ボサボサの私とは違う。指先までキレイなネイルが施されている沙織を私はちゃんと見られなかった。
羨ましいと思った。
私は「ごめんね。ボサボサで」
と苦笑いを浮かべながら自虐的な事を言うと
沙織はいつも笑って「そんな事ない」
と言ってくれた。
子供が2歳になりイヤイヤ期が始まると
私の心はどんどん暗くなっていった。
大人しく絵を描いていたかと思えば
突然クレヨンを投げて泣きだすし
ご飯を食べていても箸を投げご飯も床に投げてしまう。
私が怒るとより一層大きな声で泣いた。
そんな事が毎日繰り返されて、どうにかなってしまいそうだった。
『たまには息抜きしておいで』と夫に言われ
私は沙織とずっと行きたかったカフェにいた。
沙織は相変わらず綺麗な格好で、髪もツヤツヤしている。
「昨日美容室に行ったんだ」
と弾んだ声で話す沙織にどうしようもない嫌悪感を抱いてしまった。
沙織は何も悪くない。
頭では理解しているのに、心がまったく追いつかない。
沙織は昨日美容室で施されたトリートメントでツヤツヤな髪と、先週買ったお気に入りのショップの新作のワンピースを着て、華奢なネックレスとゴールドのリング。
足元は薄いピンクのハイヒールを履いていた。
私はもう何ヶ月も美容室に行けてない。
ボサボサの髪を無理矢理アイロンで伸ばして、いつ買ったかも覚えていないヘアオイルをつけ、急いで束ねただけ。
洋服も新しい服なんてしばらく買ってない。
数年前に買った水色のブラウスと、白いスキニーパンツを着て、アクセサリーは子供に取られるからといつの間にかつける癖が無くなった。
あまりの差に一緒にいるのが恥ずかしくなった。
沙織は幸せそうに笑っていて、仕事も順調で悩みなんて何もないような顔をしている。
「今日は主人がご飯作ってくれるから、ラクなんだ」と嬉しそうに言う。
私は帰りにスーパーに寄って食材を買って、慌ただしく夕飯を作らなくてはいけない。
なにもかもが違う。
沙織は私の欲しいものを全部持ってる。
自分の為にお金も時間もかけて、何不自由なく暮らしている。
私は子供の世話で朝から晩まで自分の時間なんてほとんどないのに。
ずるい。
そう思ったら最後。
沙織が一気に憎たらしくて仕方なくなった。
幸せそうに笑ってるその顔が、みすぼらしい姿の私を笑っている。
キラキラしている自分と比べて、私をバカにしている。
なんて嫌な女!
「子供いないと自由にできていいよね。羨ましい」
本心だった。
だけど、沙織が子宝に恵まれてないことを知っている私からでた最低の皮肉だった。
言葉になって口から出た本音は恐ろしく醜いものだと、自分でも分かった。
でも止められなかった。
沙織を嫌な気分にしてやりたくて、どうしようもなかった。泣かせてやりたかった。
「うちの子最近酷くてさ、夜もまともに寝れないよー!まぁ、不妊治療とかしなくて済んでよかったんだけど」
私はヘラヘラ笑っている。
沙織の顔を見ないようにして、傷付けると分かっている言葉を並べている。
最低だ。最低だ。
ほんの数秒、沈黙があったあと
「そうだね。授かれるか分からないのに、お金だけ消えてく。バカみたいに見えるよね。」
声が震えていた。
初めて聞く声だった。
「ごめん。用事あるの思い出したから帰るね」
そう言って沙織はスッと立ち上がり帰ってしまった。
当然だ。
分かってて言ったんだ。
けれど、興奮状態の私は自分が悪いだなんて思いたくなかった。
家に帰って夫に今日のことを勢い任せに話した。
「沙織はボサボサの私をいつもバカにしてたの。私、それが悔しくって。思わず『羨ましい』て言っちゃったー!」
沙織を傷付けるために吐いた言葉は隠した。
夫は優しく微笑んで
「ボサボサなんかじゃないよ。頑張ってる証拠だよ。沙織さんはまだ子供がいないから分からないだけだよ」
と私の欲しい言葉をくれた。
そう。沙織にまだ子供はいない。
その事が私を安堵させる。
私の方が勝っていると思わせてくれる。
そんな醜い本音に気付きながらも、私は自分を正当化する。
私は自分が可愛い。自分を守りたい。
仕方ないのだ。
悪いことをした自覚があるのだから、まだマシな方だと思う。
沙織に一応謝罪を入れた。
『育児のストレスでつい酷いことを言ってしまったの。本当にごめんね。あんなこと本当は思ってないから。ごめんなさい。』
私は謝った。
でも沙織からの返信は無かった。
私はやるべき事はやった。咎められることはないだろう。反省はしているのだから。
私は少しだけ沙織からの返信を待ちつつ
「子供が産まれた」という知らせが届かないことを祈る。