瀬田玉川神社から瘡守稲荷神社へ歩く。5分ほどで着く。瀬田玉川神社の末社である。

 

行くかどうか、迷った。神社名が気になる。疫病封じとか、神社の御利益にも色々あるが、「瘡守」とは露骨である。

 

それでも訪れたのは、この瘡守稲荷神社の近くに遊郭があったと知ったからである。

周辺の様子を知りたかった。今では住宅街で、昔の面影はまったくない。

 

遊郭があったことから考えると、この瘡守とは性病除けの意味が強かったのだろう。

 

遊女がこの瘡守稲荷神社で日々祈願したことは間違いない。遊郭の近くには神社があることが多い。

 

 

標識には、「かさ守稲荷広場」と合った。子供たちの遊び場なのだろう。思い返せば、私も近くの神社の境内で遊んだものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

二子玉川駅から歩き、瀬田玉川神社を訪れる。

 

祭神は、日本武尊、大己貴命、少彦名命である。統一性がないが、これはこの地域の神社を合祀したためである。

 

もともとは、御嶽神社として創建された。永禄年間(1558年~1570年)のこととされている。

 

注意すべきは、この御嶽神社は、武蔵御嶽神社のことで、木曾御嶽神社ではないことだ。御嶽神社には、武蔵と木曽の二系統がある。

 

武蔵御嶽神社の祭神は、大己貴命と少彦名命である。出雲伯耆神話では、大己貴命(=大国主命)は出雲大社の地に鎮まり、少彦名命は粟嶋神社の地から常世へ飛び去ったとされるが、東国では開拓・統治の神として信仰を新たにした。

 

瀬田玉川神社の鎮座地は、多摩川がつくり出した国分寺崖線の上にある。

 

 

 

 

西新宿にある成子天神社を訪れる。西新宿駅の近くである。この日は、例大祭だった。

 

 

以前訪れたことがある。この神社の存在を知ったのは新聞記事を読んだからで、しかも神道とは無関係だった。境内に高層マンションを建てたという記事だった。2014年1月のことである。

 

再開発したためか、境内は美しい。

 

 

 

鳥居と神門を通る。

 

 

 

社殿の背後にマンションがあるが、ここは賃貸用である。

 

 

新聞記事になった高層マンション。分譲されたが、土地の権利関係は定期借地権であろうと思われる。

 

 

東京の中心地区の神社は再開発で、境内を何らかの形で運用している例が多い。ここもその一つである。

 

再開発される前は鬱蒼とした鎮守の森だったらしいが、青梅街道という幹線道路沿いでは、防災防火という観点からも維持できなかったと思われる。

新宿総鎮守・花園神社を訪れる。

 

 

花園神社と云うが、1965年からこうなったのであって、それ以前は花園稲荷神社だった。つまり、稲荷神社だった。

 

神社碑は昔のままである。創建年代は不明で、徳川家康が江戸を治める以前からあったようである。

 

 

 

 

 

掲げられている神額をみると、花園神社の他に、大鳥神社と雷電神社の神額がある。合祀したものだ。

 

よって祭神は、倉稲魂命(稲荷)日本武尊(大鳥)受持神(雷電)の三柱である。大鳥神社があることから、酉の市は賑わう。東京三大酉の市の一つである。

 

 

境内の隅に、芸能浅間神社がある。

 

 

 

 

奉納者の名前を見ると、懐かしい。唐十郎はすでに亡くなっている。なべおさみはまだ生きているらしい。息子のなべやかんの名もあった。

 

花園神社のある花園町は昔の悪所で、若い時にカメラを盗られたことを思い出した。ヘンなことを思い出すものだ。ずっと忘れていたのに。

大井町線・荏原町駅前にある旗岡八幡神社を訪れる。

 

 

創建は1030年である。4年後は創建1000年の記念イヤーとなる。

 

源頼信が平忠常の反乱を成敗する途中、この地で宿営した際、霊威を感得し、八幡神を奉斎したのが始まりとされる。

 

この地に源氏の白旗を立てたため、旗岡とか旗の台と呼ばれるようになった。

 

久しぶりに太陽が拝めた日だったが、社殿の背後から日がさして、写真を撮るには不都合だった。

 

 

 

 

 

荏原町駅から自由が丘駅まで乗る。駅前の再開発ビルのミューズ・スクエアが竣工していた。

 

 

オープンは、9月17日という。シルバー・ウィーク期間は自由が丘はごった返すだろう。

 

 

 

 

少彦名命が常世の国に去ったとされる粟嶋神社を訪れる。

 

 

(住所)米子市彦名町

 

米子駅から米子空港へ行く途中にある。

 

神社名から分かる通り、ここは江戸時代以前は、中海にある島だった。江戸時代に干拓され、地続きとなった。

 

祭神は、少彦名命である。少彦名命は大己貴命の義兄弟となり、国土開発に貢献したとされる。医薬、温泉、穀物、酒造の神として信仰されている。

 

伯耆国風土記逸文によれば、少彦名命はこの地で粟の種をまき、育った粟の茎がはじけた時に、常世の国に去ったとされる。

 

 

こんもり茂った森があるが、この中に社殿がある。見た目は低いように見えるが、実際は187段の階段を上がる。

 

 

 

 

 

出雲大社の遥拝所が社殿背後にある。

 

 

社殿前には伊勢神宮遥拝所もある。

 

 

中海を見たかったが、全景は臨めなかった。

 

 

(伯耆)大山が見えた。米子方向から見ると、威容が分かる。霊山である。

 

 

大神山神社本社を訪れる。

 

大神山神社は、大山(伯耆富士)を霊山と仰ぐ、山岳信仰の神社であり、修験のメッカだった。神仏習合で、大智明権現として信仰され、現在の大神山神社奥宮を本宮としていた。

 

本宮は山中にあり、冬場は参拝が難しい。そこで里宮として大神谷に創建されたのが大神山神社本社である。大神山神社奥宮を夏宮と、大神山神社本社を冬宮と称した。

 

その後、冬宮は3度場所を変え、1635年に現在の尾高の地に遷宮した。これが現在の大神山神社本社である。

 

旅行会社のツアーに参加して3度この地を訪れたが、いつも行くのは大神山神社奥宮である。大神山神社本社はどういう神社なのかと気になっていた。

 

その穴埋め?のため、今回訪れた。地図で調べると、アクセスが難しそうだ。ということで、米子駅からタクシーで行った。

 

タクシーの運転手さんに、「大神山神社まで行ってほしい」というと、「エッ、山の上まで行くの」と訊かれた。「いや、平地にある方」と答えると、「あぁ、あそこか。参拝者はいないところですよ。いつも一人が二人がいいところだ」という。これで神社の状況が分かった。

 

タクシーから降り、参拝したが、結局、私一人しかいなかった。宮司さんはノンビリ境内の掃除をしていた。奥宮とは大違いだ。

 

 

 

 

祭神は、大穴牟遅神である。

 

 

 

(付記)

 

由緒を見ると、大神山神社本社の祭神は、大穴牟遅神であり、奥社の祭神は大己貴神である。いずれも大国主命の別名である。本社と奥宮でなぜ別々の名称を用いたのか、疑問が起きるところである。

 

以下は、AIによる回答である。長文なのでそのまま引用する。

 

### ◆結論(理由の核心)
大神山神社が **奥宮=大己貴神**、**本社=大穴牟遅神** と使い分けている理由は、  
**神仏習合 → 神仏分離 → 祭神再編** の歴史過程によって、  
奥宮と本社が **別系統の信仰施設として長く独立していた**ためです。  
両者は明治以降に「同じ大神山神社」として統合されましたが、  
**祭神名はそれぞれの歴史的文脈を引き継いだまま残った**ことが理由です。  
  
## 🏔 1. 奥宮は「大山権現=地蔵菩薩」を祀る修験道の中心だった  
奥宮はもともと神社ではなく、  
**大山寺の修験者が祀った「大智明権現(地蔵菩薩)」の社**でした。  
- 平安〜中世:大山は修験道の大霊場  
- 奥宮は「夏宮」と呼ばれ、地蔵菩薩=大智明権現を祀る  
- 僧兵3000人を擁する巨大宗教勢力  
 
つまり奥宮は長く **仏教側の施設**であり、  
大己貴神を祀る「神社」としての歴史は **明治以降**に始まります。

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## 🏛 2. 本社は「冬宮」=純粋な神社として発展  
一方、本社(里宮)は  
**冬季の祭祀拠点として麓に設けられた“冬宮”**で、  
こちらは古くから **神職が奉仕する神社系の施設**でした。  
祭神は大国主神の若名である **大穴牟遅神**。  
 

つまり本社は **神道系の祭祀の流れを継承**しており、  
大穴牟遅神という「若名」を用いる伝統が残りました。

## ⚖ 3. 明治の神仏分離で「奥宮=大己貴神」に再編  
明治8年(1875)、神仏分離令により  
奥宮から地蔵菩薩(大智明権現)が撤去され、  
**本社の祭神(大己貴神)の御分霊を奥宮へ遷座**。  
 
この時点で初めて奥宮は  
**「大己貴神を祀る神社」**として成立します。

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## 🌀 4. なぜ本社は「大穴牟遅神」のままなのか  
大己貴神と大穴牟遅神は **同一神の異名**ですが、  
大神山神社では以下の理由で使い分けが残りました。

### ●(理由1)本社は神道系の伝統を継承  
本社は古くから「大穴牟遅神」を祀る神社として成立していたため、  
その祭神名を変更する必要がなかった。  

### ●(理由2)奥宮は明治に「大己貴神」へ改められた  
奥宮は仏教系の権現社から神社へ転換する際、  
「大山=大己貴神が鎮まる神体山」という古代記録  
(『出雲国風土記』の「大神岳」)に基づき、  
**大己貴神の名を採用した**。  
 
### ●(理由3)山の神=大己貴、里の神=大穴牟遅という構造  
大己貴神は「成熟した国造りの神」、  
大穴牟遅神は「若名=成長期の神」。  
山岳信仰の中心である奥宮には **完成形の大己貴神**、  
里宮には **若名の大穴牟遅神** が自然に残ったと考えられる  
(これは文献の明示ではなく、信仰構造からの推論)。

## 🧭 まとめ(構造的に整理)
| 場所 | 歴史的性格 | 祭神名が残った理由 |
|------|-------------|----------------------|
| **奥宮(山腹)** | 修験道の権現社 → 明治に神社化 | 神体山=大己貴神という古代記録に合わせて再設定 |
| **本社(麓)** | 古くからの神社系「冬宮」 | 伝統的祭神=大穴牟遅神をそのまま継承 |

→ **両者は長く別系統の宗教施設だったため、祭神名の違いがそのまま残った。**
 

 

因幡国一宮・宇倍神社を訪れる。鳥取駅から5キロほど離れた地にある。

 

前回は、一宮巡りの一社として訪れた。今回は、武内宿禰を祀る神社として関心が起きて訪れたものである。

 

武内宿禰は、第十二代景行天皇から、成務、仲哀、応神、仁徳の五朝に仕えたという伝説的人物で、360余歳の長寿を保った。360年の長寿はありえないが、どうしてこういう人物が登場するのか、好奇心が起きる。

 

特に応神天皇の即位に多大な功績があったとされる。応神天皇と云えば八幡神である。従って、武内宿禰は八幡宮との関係が深く、東松江に”平浜八幡宮竹内神社”と云う不思議な名前の神社がある。関東では、鎌倉の鶴岡八幡宮にも拝殿の左横に竹内神社があるが、たいがいの人は無関心である。

 

武内宿禰が亡くなったのが亀金岡とされ、その崖下に創建されたのが宇倍神社である。648年のことである。

 

 

 

 

 

「亀金岡 武内宿禰終焉の地」という石碑がある。

 

 

祭神の武内宿禰が360歳の長寿を保ったことから長寿の神社として信仰を集めている。

 

また、明治32年に、五円紙幣の図柄に、宇部神社社殿と武内宿禰像が載せられたことから、金運の神社としても有名である。長寿・金運の神社である。

横浜総鎮守とされる伊勢山皇大神宮を訪れる。

 

 

横浜は、幕末の開港以前は小さな漁村だった。神社らしい大きな神社はなかった。そこで、明治になってから、時の神奈川県知事が横浜にふさわしい神社を創建することとした。1870年のことである。この経緯からも分かる通り、公的な色彩の強い神社である。

 

紅葉坂を上がり、お参りする。社殿へはなお階段を上がらなければならない。

 

神社名から分かる通り、伊勢神宮から分霊して建てられたもので、祭神は天照大御神である。

 

 

 

 

 

拝殿。

 

 

伊勢山皇大神宮の本殿は、伊勢神宮内宮の西宝物殿をそのまま移築したもので、これは珍しい。伊勢神宮の部材の一部を利用したという社殿は他にもあるが、ここは一棟丸ごと移築した。拝殿からも本殿が真正面に見えるような構造になっている。

 

横から撮影した。

 

 

 

多摩川駅前に鎮座する(多摩川)浅間神社を訪れる。

 

御朱印は華やかである。

 

ただ社務所のはじまりが10時からなので、9時ごろお参りしてもダメである。

 

 

浅間神社なので、祭神は木花開耶姫である。

 

北条政子伝説の神社で、北条政子が亀甲山(多摩川台)から富士を仰ぎ見、この地に正観音像を建てたのが始まりとされる。1185年~1190年間のこととされる。それゆえ、ここは富士浅間大菩薩と呼ばれた。神仏習合は明らかである。

 

鎮座するのは、多摩川台の南端である。

 

 

正面に拝殿が見え、背後の本殿の屋根も見える。本殿は二層建てで、浅間造りである。

 

拝殿の位置は普通のように見えるが、実は、これは古墳の上(浅間古墳)の上に建てられたものである。

 

 

古墳の上に建てられたようには見えない。前方後円墳だった。「前方」部分は東横線の開通のため開削され消滅。「後円」部分に神社があるが、ここも神社建築のため整地されてしまった。違和感のない普通の神社のように見えるのはそのためだ。