王子神社を参拝後、王子稲荷神社へと歩く。300メートルほど離れている。住宅街を歩いた。

 

(鎮座地)東京都北区岸町

(祭神)宇迦之御魂神 宇気母智之神 和久産巣日神

 

鎮座地の岸町という町名に注目。かっては、ここは荒川の岸だったのだ。王寺駅から見ると、飛鳥山公園、王子神社、王子稲荷神社と高台が続くが、荒川が削り取った河岸段丘である。

 

王子稲荷神社の創建は不明だが、平安時代以前に存在したとされる。当初は岸稲荷と呼ばれた。民間信仰の稲荷社だった。


江戸切絵図を見ると、王子権現と王子稲荷社は隣接しているように見える。両社を分かつのは日光道である。この高台一帯は森で、森の中に王子権現と王子稲荷社があった。王子権現が総鎮守、王子稲荷社がその守護神とされていた。

 

現在は、森は伐採され、住宅地となっている。

 

道路沿いに惣門がある。これが江戸趣味旺盛で、見ごたえがある。

 

 

惣門の先に鳥居があり、階段を上がり、社殿前に出る。これなら普通の参拝路だが、ここは平日は通れない。総門の先が幼稚園の用地になっているからだ。

 

 

 

社殿は階段上の狭い敷地にある。社殿は江戸時代らしい華麗なものだ。

 

 

 

 

王子稲荷神社は、関東稲荷の総本宮として敬われた。江戸時代は人気ナンバーワンの御宮だったらしい。

 

今訪れると、案外と印象が薄い。よくよく理由を考えると、境内が狭い。本来の境内の大半を幼稚園用地としたことが影響しているように思う。幼稚園の奥に社殿があるように見えるからだ。

 

東京都北区にある王子神社を訪れる。

 

(鎮座地)東京都北区王子本町

(祭神)伊邪那尊 伊邪那美命 天照大神 速玉男命 事解男命

 

江戸切絵図を眺めていると、王子近辺の絵図があり、確かめに出かけたものである。

 

王子神社は、切絵図では王子権現御宮と記されている。祭神は、伊邪那尊、速玉男命、事解男命で女神は記されていない。

 

王子神社の創建は不明である。切絵図では、元享年間(1321年~24年)中に豊島何ガシが紀州熊野をここに勧請すと記されている。

 

この紀州熊野は、熊野の若一王子社をいう。かって熊野本宮が鎮座していた大斎原の入口にあった神社である。

 

都道455号線沿いに参拝口がある。

 

 

 

 

社殿は権現造りである。重量級の社殿で、威圧感がある。1982年に再建された。

 

 

梅まつり開催中の湯島天満宮を訪れる。

 

(鎮座地)東京都文京区湯島

(祭神)天之手力雄命 菅原道真公

 

創建は458年とされている。この時は、天之手力雄命を祀った。のちに、1355年に菅原道真をも祭神とし、天満宮としての性格が強まった。

 

梅まつり期間中だったが、梅はまだ早かった。人出は多く賑わっていた。受験シーズンと梅まつりが重なる時期である。

 

 

 

 

合格祈願の絵馬。湯島天満宮が一番多い。境内の至る所に絵馬が吊りさげられていた。私が受験した時は、天満宮にお参りした記憶がない。どこへ合格祈願をしたのか記憶が定かでない。

 

 

梅まつりで、梅の盆栽が展示されていた。

 

 

梅はこんな状況で、2月下旬がよさそうだ。

 

 

 

<御朱印>

 

 

根津神社を訪れる。東京十社の一つである。

 

(鎮座地)東京都文京区根津

(祭神) 須佐之男命 大山昨命 誉田別命

 

日本武尊が創建したという伝承がある。当初は現在の千駄木にあったが、1607年に現在地に遷座した。

 

以後、地震にも耐え、戦災にもあわなかったということで、江戸時代の創建当時の社殿がそのまま残っているという貴重な神社である。これらはすべて、国の重要文化財に指定されている。

 

 

 

 

 

ツツジ園があり、ツツジの季節が素晴らしい。賑わう。

 

 

楼門。

 

 

唐門。両側は透塀である。この透塀の基礎は約8メートルも掘っている。当時としては驚異的な深さである。従って、この塀は創建当時のままである。ほとんど歪んでいない。

 

 

拝殿。背後に幣殿、本殿と続くが、背後にまわれないのが残念だ。透塀を通してみるしかない。

 

 

左側の斜面から社殿を見下ろす。江戸時代の神社建築の素晴らしさが分かる。

 

 

<御朱印>

 

 

(追記)

 

池波正太郎の小説を読んでいたら、根津権現社が登場する。江戸時代には根津権現社だった。権現社と云えば、神仏習合だが、現在の根津神社には仏教的要素はない。千駄木にあった当時は別当寺もあり、神仏習合だった。権現社という名称だけを受け継いだ。

 

(追記修正)

 

上記の追記は、AIで調べたものだ。ところが、池波正太郎の「江戸切絵図散歩」で江戸時代の上野周辺の絵図を見ると、根津権現社の左下に「別當 昌泉院」とある。別当寺が存在したのだ。つまり、根津権現社は神仏習合だった。

 

明治の神仏分離で、根津神社となった。ちなみに、森鴎外は根津神社の氏子だった。鴎外の「青年」「雁」には、明治初期の根津・千駄木が描かれているそうだが、もう、小説の内容は忘れてしまった。

 

ちなみに、現存する豪勢な社殿を造営するために多くの職人が集まった。その職人相手の遊郭ができ発展した。江戸でも有数の遊郭地帯だった。現住所でいえば、根津1丁目21番地あたりらしい。明治21年に遊郭整理令で廃止された。

 

東京大学が隣接するように建てられたので、遊郭があるのはまずいと考えられたらしい。東京大学の学生が根津遊郭に遊びに行った時代もあったのだ。東大生だった坪内逍遥は根津の遊女・花紫を妻としている。今なら、大スキャンダルだね。

東京十社の一つ・神田神社を訪れる。神田神社と云うより、神田明神という方が親しみやすい。

 

実際、地下鉄の新御茶ノ水駅では神田明神方向の案内がある。

 

神田神社には秋葉原駅からも行けるが、坂道を上がらなければならない。いつも、新御茶ノ水から行くことにしている。

 

新御茶ノ水駅から聖橋を渡る。

 

 

聖橋を渡り、湯島聖堂の横を歩き、本郷通りに出る。通りに面して鳥居が立っている。奥に随神門が見える。

 

(鎮座地)東京都千代田区外神田

(祭神)大己貴命、少彦名命、平将門

 

普通、神田神社と云うと、平将門を祀っている神社と思うところだ。

 

 

随神門は大きい。ところで、この随神門は昭和50年に建てられたもので新しいものなのだ。以前にあった随神門は関東大震災で消失してしまったのだから、約50年ほど随神門がない状態があったことになる。信じられないような話だが、事実だ。

 

 

社殿。行列ができていた。明治神宮や靖国神社などの公的色彩が強い神社を除けば、ここが一番賑わう神社である。

 

 

社殿は壮大華麗なものである。前の社殿は関東大震災で消失し、昭和9年に再建された。伊東忠太が設計にかかわった。この人の設計思想がここにも表れているとされる。伊東忠太といえば、築地本願寺、湯島聖堂の設計も担当し、私から見ると、バカでかい建物がつくるなという印象が強い。

 

 

右側に赤い絨毯があるのは、花婿・花嫁の通り道だ。静々と社殿の中に入って行った。

 

 

<御朱印>

 

 

川崎大師を訪れる。御守を返すため。新しい御守は買わなかった。

 

いつもは裏から入るが、お詣りも最後かもしれないと思い、仲見世から入る。

 

 

 

 

ちょうど護摩の最中だった。大きな太鼓の音を聞くと、川崎大師にやってきたと感じる。護摩修行の太鼓の音はここが一番迫力があると思っている。気が引き締まる。

 

 

 

(付記)川崎大師の初詣客は明治神宮に次ぐというが、いつ頃からこうなったのだろうか。これが案外と新しい。戦後の生活が落ち着きを取り戻した昭和30年以降のことらしい。

 

そもそも江戸時代には初詣という習慣はなかった。明治以降、鉄道の発達とともに、いわゆる観光キャンペーンのような形で初詣習慣が形成されたらしい。

穴守稲荷神社を訪れる。古い旅行安全御守を返すためである。新しい御守は買わなかった。

 

(鎮座地)東京都大田区羽田

(祭神)豊受姫命

 

飛行機の安全を守る御守としてはここがベストか。もともとは現在の羽田空港の敷地内にあった。羽田空港の拡張工事のため現在地に遷座した。

 

文政年間(1804年~31年)に創建されたものとされる。羽田浦の堤防に穴が開き、それを守るために祠を建てたのが始まりである。穴守はこれに由来する。

 

稲荷伸には豊穣ばかりではなく、災厄を防ぐパワーもある。

 

 

最初に訪れた時とは境内の様子が変わった。特に社殿の背後が。

 

 

 

右側に奥宮へ行く参道があり、稲荷特有の赤い鳥居が並んでいる。

 

 

奥宮。

 

 

新しい鳥居を建てるべく業者が工事をしていた。

 

 

かたわらに、坊主頭の作務衣を着た人がいた。坊さんなのかと思ったぐらいだが、話をすると、神職さんである。

 

あと2本ぐらいで、鳥居を建てるスペースがなくなるという。小さな鳥居はまだ余裕があるから、そちらの方をお願いすると云っていた。

 

 

 

 

浜松八幡宮を訪れる。遠鉄八幡駅の前にある。

 

(鎮座地)静岡県浜松市中央区八幡町

(祭神)玉依比売命 品陀和気命(=応神天皇) 息長足姫命(=神功皇后)

 

玉依比売命が祭神になっているが、もともとは浜名湖で許部神社として創建されたからである。浜名湖の海を鎮めるために玉依比売命を祀った。仁徳天皇の時代とされる。

 

938年に現在地に移り、1051年に源義家が八幡神を勧請し、八幡宮となった。

 

 

 

 

境内に東照宮御由緒の雲立楠がある。三方ヶ原の戦いに敗れた徳川家康がここに隠れたという伝説に由来する。

 

 

 

 

浜松市の中心にある五社神社・諏訪神社を訪れる。二つの神社名が並列する珍しい神社である。扁額を見れば分かるね。

 

 

(鎮座地)静岡県浜松市中央区利町

(祭神)五社神社=太玉命、武雷命、斎主命、天児屋根命、姫大神

    諏訪神社=建御名方命、八坂刀売命、事代主命

 

五社神社は、もとからここにあった。別の場所にあった諏訪神社は江戸時代に焼失し、城下町整備の都合上、五社神社の隣地に遷座した。五社神社と諏訪神社は隣接していた。

 

こうなると、明治の神社合祀政策で一つになったと思いたいところだが、明治以降も変わらなかった。

 

五社神社と諏訪神社の社殿は、両方とも国宝に指定されていたが、戦災で焼失した。その再建の過程で合祀する方向になった。宗教法人としての統一は1960年で、1962年に合祀することが正式に決まった。

 

その後の過程が長い。現在の社殿が建てられたのは1982年である。終戦後37年間、仮社殿だった。

 

 

 

 

これが拝殿である。五社神社と諏訪神社と二つの神社があるが、拝殿も本殿も一つである。ややこしいが、左側が五社神社、右側が諏訪神社で、賽銭箱は二つある。

 

静岡浅間神社を思い出したね。同じ形だ。静岡浅間神社も浅間神社と神部神社の二つの神社があって、拝殿は一つである。

 

 

浜松城に近く、五社神社も諏訪神社も、両社とも、徳川秀忠の産土神である。歴史があるから、一つの神社名に統一できなかったのだろう。

 

 

東海道新幹線に乗る度に、浜名湖の湖中に立つ赤い鳥居が気になっていた。どんなものかと、訪れてみる。

 

(鎮座地)静岡県浜松市中央区舞阪町弁天島

(祭神)市杵島姫命

 

これが鳥居である。しかし、現実は鳥居ではないというのが驚きだ。

 

弁天島観光シンボルタワーである。つまり、これは観光用のタワーである。建てられたのは1973年である。

 

 

では、辨天社がないのかというと、これは存在する。辨天神社と云う。

 

 

これが辨天神社の社殿。

 

 

昔からあったというが、1709年に建てられたというのが確実である。

 

地震で崩壊したこの地の復興を請け負った松葉屋喜兵衛が、この地の守護のため、川越の辨天を勧請して、創建されたという。

 

川越の辨天が浜名湖で祀られるというのは興味を引くところである。