紀伊国名所図会
この紀伊国名所図会鈴丸丁の図ですが、萬精院の東側。今の畑屋敷新道丁は江戸時代には滅法谷(めっぽうだに)と呼ばれていました。
太田黒田から西に流れてきた大門川が伊勢橋付近で急角度で南側に折れ曲がる場所で、土砂が積み重なって両岸は丘のように盛り上がっていたことから谷の地名が付けられたと想像します。右側が滅法谷。左岸より高くなっています。
伊勢橋は高く弧を描いた立派な橋で天頂部から昔伊勢の高見山が見えたことからその名がつけられたと言われています。
これは伊勢橋付近から撮った写真ですが視界を遮る建物がない江戸時代なら秋などの空気が澄んだ季節ならはるかかなたに伊勢の山々まで見えたのかもしれません。
1801年(享和元年)この滅法谷で、鈴丸丁に住む豪家阪上重次郎が、窯場を作っていたのですが、藩主徳川治宝公の目に止まり、藩主より芝の緑色を焼き物に表すよう命じられ、見事その陶器を作ることに成功。
治宝公は美しく深い緑色の焼き物に感銘を受けて、そのやきものを瑞芝焼(ずいしやき)と命名し重次郎を藩の御用職人とし庇護しました。
治宝公は折を見て重次郎の窯場に和歌山城西の丸から船でお越しになり、新しい焼き物を楽しまれたといいます。
当時西の丸から大門川や真田堀川へは
船で自在に行くことができました。
窯場には漆黒に金の葵御門の入った
御成門があったと伝わっています。
現在その窯場跡は当時の面影はなく
萬精院東側の駐車場になっています。
瑞芝焼は男山焼や偕楽園焼と共に藩を代表する窯として
明治まで続きました。
和歌山藩の庇護の元発展を遂げた瑞芝焼ですが、
明治新政府になると風向きが変わり1874年明治7年
三代目阪上重次郎の時に廃窯。しばらくは絶えていましたが、
5代目重次郎が1973年善明寺にて窯を作り復興。以来和歌山市善明寺461で製作・販売を続けています。
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