和歌山市歴史マップ 和田盆地の開発 平安時代 | ユーミーマン奮闘記

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~和歌山営業所の日常~

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静火神社中世の旧跡 2012年

 

今回のブログは平安時代末期の大冶2年(1127年)からはじまった和歌山市和田~安原にかけて広がる盆地(和田盆地)耕地開発について書きたいと思います。

 

その前に和田盆地がどのように出来上がったのかを説明したいと思います。

冬野の高台より和田盆地を眺める

 

和田盆地は和歌山市南部を東西に流れる和田川の南側に位置し、東に現在信愛女子短大がある相坂の山や安原山地。南に仁井辺から冬野にかけて連なる山々。西は名草山と竈山付近の低山に囲まれた盆地です。

 

縄文時代の和田盆地

 

和田という地名は古代の言葉で「海原」を指し、今から1万3000年前~6000年前には地球全体が温暖になり、海面が10m以上上昇。 この周辺は入海のような状態だったと想像されます。

 

 

これは2012年6月におこった水害ですが、和田盆地は今も標高2m以下のところが多く、毎年のように大雨による浸水がおこる場所です。

この場所が入海だったことが想像できます。

 

弥生頃の和田川河道

 

縄文後期~弥生時代の頃になると、気候は少し寒冷化に向かい、海は西に後退し、和田周辺には広大な干潟ができます。

この頃の和田川は現在の流路ではなく、盆地の中の一番低いところを弧を描くように流れていたようです。

 

 

これは和歌山市防災マップですが、 和田川旧河道の場所は今も2m以下の低地で、(濃い青色)この低い部分を流れていたこと思われます。

海が後退し、陸地が出現すると、川の両側の微高地に人が住み

生活を営んでいたことが、遺跡の調査でわかりました。

 

公益財団法人 和歌山県文化財センター刊 風車より

 

これが発掘された旧和田川です。(中央の用水路に沿って伸びる地面の落ち込み白いマーキングの箇所) 

田圃の下に2000年前の河原が出現しました。

場所は現在の県道松島~本渡線の和田川陸橋の下。

掘り出された旧河道は現在の和田川にから直角に折れ曲がっています。 (左に見えるのは住居跡。)

先ほどの地図で示せばこの赤い部分に当たります。

 

この場所で祭祀が行われていたのでしょう。旧河道の跡からミニチュアの土器が出土しています。

 

弥生時代の祭祀の様子 吉野ヶ里遺跡

 

この旧和田川は出土した土器から弥生時代末期~古墳時代初期にかけてあったと想像されます。古墳時代のいつごろか川は埋没し、和田川の流れは現在とほぼ同じ河道になりました。(公益財団法人 和歌山県文化財センター和田遺跡発掘調査より)

 

弥生時代から古墳時代にかけて、この場所で稲作は行われていた

様子はなく、満潮時和田川から逆流してくる潮がこの盆地に入り込んで塩入り荒野となっており、稲作に適さない土地でした。

 

そこに住む人たちは山裾の畑作と漁業で生活していたようです。

 

 

和田川堤防の竈山神社の鳥居がある付近には、和田岩坪遺跡があり、土錘(土器でできた錘)などの漁師の道具が出土していることから

古墳時代、この場所は和田川の河口で、漁師がいたことがうかがえます。

土錘とは土器で作られており網のおもりに使われていたものです。

 

これが現在の岩坪地区の様子です。

向こうに見えるのは竈山神社の鳥居です。

 

小字名岩坪は昔入江でした。今は西川と名草川に挟まれた低い場所です。この東側に和田の集落があります。

遺跡は竈山神社参道の西側で見つかりました。

 

向こう側の畑地が遺跡の場所です。

 

 

 

和田は平安時代までは作物の実らないひなびた寒村でした。

 

和田遺跡より西側を望む

左薬師山 平安時代よりほぼ同じ場所にある和田集落

 

ところが平安時代の末期の大治2年 (1127年)

和田周辺の在庁官人たちがこの和田盆地に灌漑用水

を引き、塩分が残る土壌を洗い流し、

満潮時和田川から潮がながれこまないよう

強固な堤防を作ろうと計画を立案します。

 

40町に及ぶ塩堤(潮が田に入らないようにする堤)

79町の新田開発を行ったと文献にはあります。

(紀伊国在庁官人等解案)

 

在庁官人(ざいちょうかんじん)というのは国司が今の知事だとしたら

地方公務員にあたる職で、国司の代理として、税金の徴収、治安警備、庶務、経理を行う官職で、主に下級国司の息子や地方の豪族が

その職につきました。

 

在庁官人に日前宮紀氏の名、秦氏、忌部氏、の名があり、

平安時代、地方豪族である紀氏や忌部氏が在庁官人となり

国司の実務を行っており、かなり権力を持っていたと思われます。

 

その者たちが朝廷に開発の許可を求めます。

そして耕地開発された土地は勝手に国司が立ち入ることを禁じ、

日前宮の領地にしたいと朝廷に文を提出します。

 

この時の帝は

小倉百人一首で知られている崇峻天皇、

上皇が鳥羽院 法皇が白河法皇で平安院政真っただ中。

(時代背景はNHK大河ドラマ平清盛を見るとわかります。)

 

文献は紀伊国在庁官人等解案写(きいのくにざいちょうかんじんらげあんうつし)として和歌山市立博物館に保存されています

 

こちらを参考にしてください。

紀伊国在庁官人等解案写し 文化財オンライン

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/230748

 

 

 

今のようにダンプカーも、パワーショベルも、コンクリートもない時代。 和田盆地の開発はとてつもない大工事で、それを国家事業ではなく地方でおこなったのですから驚きです。

 

盆地に灌漑用水を引くとなると和田川に掛樋を渡して向こうに水を流さなければなりません。

 

 

掛樋(かけひ)とは川を越して農業用水を向こう岸に渡す橋のこと、これは小川に掛樋をかけたもの、和田川のような広さとなるととても大掛かりになります。

 

これは今の和田川です。向こうの橋は県道松島~本渡線。平安時代掛樋が渡されたのはちょうど県道のすぐ手前。

 

当時はコンクリートの橋は作れないでしょうから。巨木をくり抜いて向こう岸に渡し、用水を送ったのでしょうか?

 

これが平安時代に掛樋が渡された所です。水門がある所です。

樋の手前は宮井用水が流れており、現在は和田川の川底にトンネルを掘って向こうに用水を渡しています。それを吹樋(フキビ)と地元の人は呼んでいます。

水が川底を潜って向こう岸の堤防の下から吹き上がってくるので吹樋(フキビ)の名がついたそうです。

 

和田川宮井用水吹樋の様子です。右が吹樋で、ごみが詰まった時

取り除けるようにコンクリートの壁に梯子段のようなものが付いています。左は雨水を和田川へ流すための水門。

 

これも驚くことに川底に用水を通す工事を行ったのは江戸時代

桶のようなものを連ねて川底に埋め、水を通したそうです。

 

平安時代にすでに広い川に掛樋を渡して、江戸時代には更に進化して川底をくぐらせて農業用水を通す技術もっていたことは、紀州には、当時最先端の治水工事を行うことのできる力があったことがうかがえます。

 

大冶の開発で宮井用水を通した場所(和田遺跡)、現在は埋め戻され

県道バイパスになっている。 向こうは和田川弧線橋

 

これら和田盆地の耕地開発が行われたのは平安末期の大治2年。(1127年)。

開発が終わった年ははっきりしませんが、鎌倉時代の永仁3年の年貢台帳には百姓名と土地の名、稲の実りの様子が示されているので、その頃には完成していたようです。実際和田川堤防付近で中世の稲籾が出土しています。

 

長い年月にわたって工事が行われ、少しずつ土壌改良してゆき、

稲作ができる地域に開発したと思われます。

 

この時期は歴史的にも激動の時代で、大冶の開発をはじめた後、平治の乱、保元の乱がおこり、平家の世となり、その後しばらくして源平の合戦がおこり、平家は壇ノ浦で滅びます。

 

 

そして源頼朝を中心とする武家の世になります。

戦乱と激変の時代にほんろうされず、紀州の新田開発は着々と押し進められ、鎌倉中期頃には年貢を収めることができるまで耕地を増やすことができました。

 

 

 

中央の権力争いには関係なく、着実に自分たちの仕事を成し遂げた紀氏、忌部氏などの在庁官人と、工事に集まった岡崎、和田、安原の人々に地方の底力のようなものを感じました。

 

 

 

 

 

 

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会場

 

 

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