朝鮮人強制連行の跡を歩き、語り合う(門司港) | ニッコリ会・下関

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「日本とコリアを結ぶ会・下関」
の略
【目的】
日本と朝鮮半島の和解と
平和を求める活動

715日、日差し照りつける午後2時から、第7回目のニッコリ会・下関のフィールドワーク『朝鮮人強制連行の跡を歩き、語り合うF.W.(門司港周辺)』が行われた。

案内人はいつもの内岡貞雄さん。先ず門司港(関門汽船乗り場すぐ近くの)の「出征兵士の碑」(1937年以降日中全面戦争、太平洋戦争)の前で、その碑には200万人の将兵が出征して100万人が戻って来なかったとあるが、内岡さんによれば500万人近い兵士が出征して帰って来なかったのが180万人というの真相らしいとのことだった。

 私の父も叔父もここから出征したのだが、叔父は1939年中国で戦死した。20歳で結婚したばかりだった。父は出征の時に、船に乗せられて六連島沖に停泊した船のデッキから家族の住む彦島を眺めていると、職場の同僚が近くで船釣りをしていたので「オーイ」と声をかけたら、慌てて向こうに行ってしまったと話したことがあった。船の中はカイコだなで横にもなれずに、座ったまま眠らなければならなかったという話をしてくれたことを思い出す。私以外にもF.W.に参加した人々の中にもきっと親族が犠牲になったり、軍隊の酷い経験を聞いたことがあるのではないか。

 

 

続いて、元全港湾労組九州地方本部委員長の村永さんと元書記長の服部さんのお話を聴いた。門司港では戦前戦後、日本人と一緒に朝鮮人労働者が沖仲士(港湾労働者、沖の船の荷下ろし作業をする)として1944年には3,000人の沖仲士のうち2,000人が朝鮮人であった。中には全国で唯一といわれる女沖仲士もいて最盛期は約100名いたという。海峡の流れや波に揺られながらの労働は危険できつい肉体労働であったが、男に負けずに働いていたそうである。今は合理化でそういう仕事はなくなったが、そういうところで多くの在日コリアンが働いていたのだった。

 おふたりはもう70歳を過ぎておられるが労組OBとして仲間同士が今も交流を重ね、現役の人々に影響を与えておられるようだ。全港湾労組は戦後、近代的労使関係づくりをイギリスのリバプールに学びに行った大先達(後の全港湾委員長、吉岡徳次氏)が帰国後、組関係者が支配する労働現場で港湾労働者を組織化し、国に対して港湾労働法の制定を実現(1966年)させ働く者の労働条件を守って来た。その労働運動の誇りをもっておられることが村永さんの着た全港湾の名前入りのTシャツにはっきりとうかがえた。

 朝鮮戦争の時、門司港の港湾労働者は戦争反対のメッセージを秘密裏に朝鮮の労働者に送ったり、戦争に非協力のサボタージュも行ったりした。その取り組みに朝鮮の人民からの感謝のメッセージも届いたりしたという。ここでは働く者の国際連帯が行われていた。

 

 

出征したのは兵士だけでなく馬も約1,500,000頭も送り出されたのだった。しかし1頭も帰って来ることはなかった。馬たちは戦場で死んだか、飢餓の中で兵士たちに殺されて食料にされたか。そういえば日本軍兵士の多くが飢餓で死んで行ったのだった。後から食料も届かないようなところにまで送り込まれ、食料の補給路が絶たれ「現地調達」という殺人、強盗等凶悪な犯罪行為をしたのだった。

 門司港ではその馬が出港前に水を飲んだ馬用の水飲み場が残されていたり、近くのお寺には立派な軍馬塚があり、慰霊が行われている。しかし、戦時下、強制連行されて来て死んで行った朝鮮人や中国人の犠牲を悼む慰霊の施設はほとんどなく、長生炭鉱水没犠牲者追悼碑のような市民が浄財を出し合ってつくったものが数少なく存在するのみだ。

 

 

そこからJR門司港駅構内へと進む。そこに鹿児島本線門司港駅から下関への関門連絡船へとつづく通路があったのだが、その一角に通行人を監視する監視口があり、今も残されている。九州と本州を結ぶ大動脈だった関門連絡船と鉄道を結ぶ唯一の通路に置かれた監視口で、おそらく特高や憲兵が監視をしていたのだろう。戦前の抑圧監視の証拠である。今また戦前に回帰しようとするアベ政治は監視社会をつくろうと共謀罪法を強行採決したことを否が応でも思い出す。

 

 門司港はかつて国際航路の外航船の港として栄え、また数多くの銀行が立ち並び繁栄を謳歌した。そこでは当時のエネルギー産出地の筑豊炭田の石炭が大きな役割を果たしていた。そして、そこでは戦時中、多くの朝鮮人、中国人、連合軍捕虜が強制労働につかされていたのだった。

 

 さらに歩を進めて老松公園に入った。ギラギラした日差しが和らぐ林間に入り、100m先ぐらいに慰霊塔を眺められる地点で、説明を聴いた。この老松公園は元陸軍兵器廠、軍需品倉庫が並んでいたそうで、当然に空襲の対象になった。関門海峡に約5000発以上の機雷が投下され、船の通行が止められ、空襲で対岸の下関同様、門司も焼け野原になったのだ。

 老松公園の一角にある慰霊碑は空襲で壊されたものを戦後立て直したものだという。石の鳥居と慰霊碑は今も靖国神社と同じように日本軍兵士の慰霊の施設である。

 またこの慰霊碑の場に持ち帰えられた犠牲者の白木の箱の列の中で、十字に荒縄で縛られぶら下げて運ばれる白木の箱があった。その箱の主は、戦場で戦争非協力者とされた戦没者であった。その遺族はどんな気持ちになったであろうか。戦争に反対する人が非国民とされ、侵略戦争で殺人、強盗等凶悪なことをする人が称えられるのが戦争であることをあらためて肝に銘じさせられる事実であった。

 この近くに連合軍捕虜収容所や中国人収容所、朝鮮人収容所があり、港湾労働等の強制労働が行われていたが、今はもうほとんど語られることもないようである。

 

 

 林間で、内岡さんの説明を聴いて、Hさんは、少年時代に機雷爆破の音を聞くや、海岸へと走り、浮き上がった魚を取って食べていたという。またこの老松公園あたりは露店の並ぶ闇市であり、山芋を掘って来てそこで売って小遣い稼ぎをしていたという。今は子どもたちが慰霊碑の下のグランドで野球に興じていた。

 レトロな観光地・門司港がかつて日本の戦争遂行に重要な役割を果たしたこと、海を越えて中国、南方へと膨大な軍人や軍馬が送り込まれた。そして180万人の兵士が白木の箱となってもどったが、中国や南方ではそんな戦没日本軍兵士の何倍もの人々が犠牲となった。

 再び戦争をしないことを憲法で決めたこの国であるが、米国の戦争に協力させられ、またも戦争の危険に向かいつつある。

全港湾労組のように私たちは国境を越えた人間同士の連帯を深め、戦争しない国、社会を求めて、これからもこのようなF.W.を続けて若い人々に伝えていきたい。