一条校認可された朝鮮学校 不法不当に閉鎖した吉田茂内閣
1948年1月のGHQの朝鮮学校閉鎖令に対する3月31日の山口県庁を包囲する大抗議行動を初め兵庫県、大阪府に対する大抗議運動、そして銃弾の犠牲者となった金太一少年については知られていますが、その直後の国会を巻き込む動きはあまり知られていません。それを詳述する本『マイナリティライツ』の岡本雅享氏の原文をご紹介したいと思います。 以下の文は同書p293からp300の引用であり、そのタイトル及び1~12の番号はこちらで付けました。1948年1月から49年12月にかけて朝鮮学校のその後を決める大きな変化がありました。当時の森戸辰男文相の英明な対処と国会、それを不法不当に潰した吉田茂首相。そして今日的に問われることについて岡本先生の著述に基づきお知らせします。2月17日の岡本先生の講義をぜひ聴いてみたいと思います。
(講演) マイノリティライツとしての民族教育
否定と肯定、及び国際基準からみた課題
2月17日(火) 13時開場
〇13時半開始~16時(講演) 〇16時20分より17時(駅前チラシ配布)
場所:生涯学習プラザ宙(ソラ)のホール 資料代500円
講師 岡本雅享(まさたか)先生
【略歴】 1967年生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了(国際学修士、社会学博士)。中央民族大学(北京)留学、サンフランシスコ州立大学客員研究員で中国(1990~93年)、米国(2008~09年)滞在。1989年より在日韓国人問題研究所(RAIK)国際人権部会、IMADR(反差別国際運動)事務局員(1993~96年)や移住者と連帯する全国ネットワーク(移住連)事務局次長(2004~14年)なども歴任。現在、福岡県立大学人間社会学部教授、明治学院大学国際平和研究所(PRIME)研究員。専門は政治社会学・民族学。著書に『日本の民族差別』(明石書店、2005年)、『中国の少数民族教育と言語政策』(社会評論社、2008年)、『民族の創出』(岩波書店、2014年)など。
共催:朝鮮学校を支援する山口県ネットワーク・補助金対策委員会
森戸辰男とは
事態の打開に乗り出したのが時の文部大臣、森戸辰男(日本社会党)だった。「民族人種による差別を禁ず」と定めた「憲法草案要綱」(1945年12月)を起草した憲法研究会のメンバーだった森戸は、1946年4月の総選挙で日本社会党から立候補して衆議院議員となり、片山・芦田内閣で文相を務めていた。
森戸は東京帝国大学で経済学を学び、卒業後、同大学の教員となり社会政策学会で1920年に発表した論文「クロポトキンの社会思想の研究」(帝政ロシアを追われたピョートル・クロポトキンの無政府主義の研究)が危険思想とみなされ、朝憲紊乱(ビンラン)罪で禁錮3カ月の刑を受けて東京監獄に収監され、東京帝大も解雇された(森戸事件)。
翌21年に大原社会問題研究所の所員に迎えられた森戸は約2年間のドイツ留学を経て、帰国後、同研究所で研究活動を続ける傍ら、大阪労働者学校で労働者教育に従事するなどした。こうした経緯から戦後は社会党に加わり、同党政調会長として1947年5月の片山哲内閣の樹立に貢献することになる。片山政権成立後は文部大臣として、民主化を中心とする戦後教育改革を推進し、六・三制の義務教育制度の導入など教育機会の拡大に尽力していた。
森戸は日本国憲法に(当初なかった)生存権(第25条)を組み入れた人物としても知られている。戦後は欧州中道左派となる社会民主主義路線を標ぼうしていた。
朝鮮学校廃止令を巡る動き
1.森戸は阪神での事件を受けて1948年4月27、30日及び5月3日の夜にも、朝連代表と対話を重ね「朝鮮人の教育に関しては教育基本法及び学校教育法に従う」一方、「朝鮮人学校問題については私立学校として自主性が認められる範囲内において、朝鮮人独自の教育を行うことを前提として、私立学校としての認可を申請する」との妥協に達し、「お互いに民族的偏見を超越して、この問題を円満解決する」ことを約した覚書を、朝連中央総本部の元容特文教部長を立会人として、朝鮮人教育対策委員会の崔溶根代表と交わした。
2.森戸はその交渉経緯を同月5日の衆議院文教委員会で報告した際、高津正道議員(日本社会党)の質問に答えて、こう述べている。「朝鮮人としては、自分の子弟を独自の形で教育していきたい、ことに朝鮮語を用い、朝鮮の歴史、朝鮮の文化を教えていきたいと考えることも、私は極めて理由のあることだと思います。・・(中略)・・従来、古い日本のとっておりました対朝鮮人政策の誤った罪滅ぼしとしても、合理的な、そうして友愛的な政策が行われるべきである」。同委員会で森戸はさらに「朝鮮人学校問題の具体的な解決策」として「日本の学校教育法に従い、私立学校が許可されている規定の範囲内において、朝鮮人独自の教育をするという前提の下で許可の申請をしてもらい、その線に従って私立学校として認める」「この線の中で、朝鮮の人々が要望されている民族独自の教育をやっていただきたい」と明言した。
3. 森戸の指示で文部省は翌6日、学校教育局長名による都道府県知事宛の通達「朝鮮人学校に関する問題について」(昭和23年5月6日発学200号)を発した。同通達は「5月3日別紙覚書に仮調印し、5日正式調印を終わり、基本問題については円満解決に到達した」旨を伝え、「この際、朝鮮人の教育並びに取り扱いについては、善意と親切を旨とし、両民族の将来の親善に寄与するよう取り計らわれたい。なお、今度の処理に当たっては左記事項にご留意の上遺憾のないよう取計らわれたい」と記した後、以下の6条を挙げている。
1 覚書中「私立学校として自主性が認められる範囲内」とは次の二つを意味する。
(イ) 朝鮮人自身で私立の小学校、中学校を設置し、義務教育としての最小限度の要件を満たし、その上は法令に許された範囲内において選択教科、自由研究、及び課外の時間に朝鮮語で朝鮮語、朝鮮の歴史、文学、文化等、朝鮮人独自の教育を行うことができる。但し、このように朝鮮人独自の教育をする場合、教科書については連合軍総司令部民間情報教育部の認可を受けたものを利用する。
(ロ) 一般の小学校において義務教育を受けさせる傍ら、放課後又は休日等に朝鮮語等の教育を行うことを目的として設置された各種学校に在学させて朝鮮独自の教育を受けさせることは差し支えない。
2~6 省略
4.森戸辰男は戦時中「森戸事件」での投獄や大原社会問題研究所での活動など戦前来の経歴を生かして、GHQの対日占領政策の転換という巨大な圧力の中で、森戸ができるだけの善処を試みたことがうかがえる。1948年1月24日付「朝鮮人設立学校の取扱いについて」(官学五号)となる同月8日草案には、GHQの指令中にあった「朝鮮語等の教育を課外に行うことは差し支えない」との一文がなかったのを見て、大臣決済の段階で挿入したのも森戸だった。前記48年5月6日通達の前書きの草案でも、森戸は「この際、過去の日本政府が朝鮮人の教育並びに取り扱いについて遺憾の点が多々あったことを深く反省・改善し、善意と親切を旨とし……」と記していたが、閣議の検討段階で下線部が削除されたという。片山・芦田両内閣は革新の社会党単独ではなく、民主党(旧進歩党)・国民協同党という保守二政党との保革合同内閣だった。森戸草案の「 深く反省・改善」等の削除を求めたのは、保守政党の閣僚だったと推測される。
5.それでも森戸がしばらく文部大臣を続けていたら、朝鮮学校は私立学校として認可され、他の私立学校と同様の公的補助を得て、選択または自由科目としてではあるが、正規に朝鮮の歴史や文学、朝鮮語などを朝鮮語で教える学校としての基礎が築けたと思われる。
このようにしていくことで大学受験資格や補助金、現在に至る高校授業料無償化等の問題は、一切起こるべくもなかったことは明記すべきである。双方が話し合いによって妥協に至った内容であったことは、その後、事態が鎮静化したことからもうかがえる。
6. だがそのわずか5カ月後の48年10月に、芦田内閣は昭和電工疑獄事件で総辞職し、その後誕生した(第2次)吉田茂(民主自由党)政権が、森戸と朝連代表が結んだ「円満な解決」策を反故にしたのである。
7. 1949年初めまでに私立学校として認可された朝鮮人学校は232校にのぼる。また朝連は出版する教材の内容を英訳し、その全訳文をGHQ民間情報局に送って検閲を受け、GHQも認可を出すようになっていた。認可を得た学校は法形式上、日本の行政下に入ったが、教育組織や学校管理組合もほぼそのまま維持され、実態的には自主的・自治的な管理運営を維持していたとみられている。
GHQも朝鮮人学校の問題は森戸文相が朝連代表らとの交わした5・5覚書で解決に向かうと見ていたようだ。この覚書が「後に第8軍占領当局も関与した協定」であることを記し、その協定に基づき「すべての朝鮮人学校は、日本の府県に学校を開校し、運営するための認可を申請することになろう」と見ている。
8. そうした中で、朝連は教育費の公費支出を求める運動を始め、1949年4月に衆院文教委員会に提出。これを受けて衆議院は文教委員会の審議を経て、5月25日の本会議で「民族特有の教育面のあることを認め、これを尊重する」として、在日コリアンの教育費用の国庫負担を認める「朝鮮人子弟に対する教育費支給案」を採択し、同月31日に内閣に送付した。これを受けて各地の地方政府も続々と朝鮮人学校への公費支出を認め始める。森戸の敷いた「円満解決」路線が順調に進んでいくかに見えた。
9.ところが吉田内閣は衆院が可決採択した決議を保留扱いにした上、同年6月23日、文部省に兵庫県教育委員会からの照会への回答という形で「朝鮮人教育費の日本政府負担について」(同省管理局長通達、記管25号)を出させ、朝鮮人学校への補助金交付の拒否を明示した。民主主義的新憲法下で国権の最高機関と位置づけられた国会(衆議院)の決議を無視した行為であった。続いて吉田政権は同年9月8日、朝連を「団体等規正令」に抵触する団体であるとして解散を命じる。「団体等規正令」は吉田内閣が同年4月4日に公布・施行した政令(国会で議決する法律ではなく、内閣が定められる規定)で、本来は軍国主義的、国家主義的、暴力主義的、反民主主義的な団体の結成と指導行為を禁止するものだった。すなわち軍国主義的戦前日本の復古を図る団体の結成を阻止するための政令だが、吉田内閣は軍国主義の被害者だった朝鮮人に対し、それを用いたのであった。
さらに翌10月12日に、「朝鮮人学校処置方針」を閣議決定し、朝連系の朝鮮人学校にも閉鎖措置を広げた。
10. 森戸前文相が交わした「覚書」に基づき、多くの朝鮮人学校がすでに学校教育法第1条により認可されていた。吉田政権はこれら1条校の朝鮮人学校に対しても、改めて財団法人の設立認可申請を、しかも2週間以内に提出するよう指示する。そして2週間以内に申請を出さない学校、また申請を出しても文部省がこれを審査し、不認可とした学校については、学校教育法第4条(監督庁の認可)違反として、監督庁である知事に学校閉鎖を命じさせるという、無理難題を押し付けた。
財団法人の申請手続きをわずか2週間以内で終えることは困難とみて、認可申請自体を断念させるのが狙いだったという。ところが多くの朝鮮人学校が、必死に所定の手続きに従い、同年11月2日の手続き期限までに財団法人設立の許可申請書類を準備し、各都道府県に提出した。
これに対して文部省は11月3日、全国都道府県から寄せられた書類をたった1日で審査し、一法人(大阪の民団系の白頭学院=現建国小中学校)を除き、「不許可」「保留」もしくは「取消し」の決定を下したのである。そして11月5日、都道府県知事経由で文部省の「不許可」「取消し」指令を通告させ、学校閉鎖令を発した。審査は形だけで、学校閉鎖の口実をつくるためだったという。この時、全体の6割に当たる225校が学校教育法にもとづき閉鎖されたが、そのうち半数(100校ほど)は財団法人の認可申請を行った学校を却下したもの(5・5覚書に基づき私立学校として認可された学校)だった。GHQの記録によれば、閉鎖対象は367校、4万693人の子ども達が母校をうしなったとされる。
11. 1948年の朝鮮学校閉鎖を主導したのはGHQだったが、49年のそれは吉田政権が主導したものだった。吉田は在日コリアンの全員の「本国送還」を切望していた。在日の居心地を悪くして日本から出ていくように仕向けるのが、かれの理想の日本国家にとって最善策と考えていたのだろう。森戸が掲げた「両民族が手を携えて伸び行く」ことを目指した「最善の努力」とそれを互いに守って築かれつつあった双方の信頼関係を、吉田政権は国会決議を無視し、信義にもとる卑怯な手段で踏みにじったと言わざるをえない。
それを主権者が不当と思えば、次の選挙で再び政権交代を起せばよい。新憲法によって主権者はその力を得ていた。しかし、それが出来て来なかった。吉田政権は対米従属の自民党独裁政治の端緒となり、朝鮮人のマイノリティライツを踏みにじられ各種学校として継続して来た。
12. その年は私立学校への公費支出を可能とする私立学校法の制定準備が進んでいた(1949年11月17日に法案が国会に提出され、12月1日の参議院で可決)。私立学校法が成立したら、森戸文相が交わした5・5覚書に基づき、すでに私立学校として認可されていた朝鮮人学校に対しては、内閣が決めた政令レベルでの学校閉鎖措置が(国会が可決した私立学校法という法律に違反するため)とれなくなり、朝鮮人学校の自主性を、法的にも尊重しなければならなくなる。その直前のタイミングで吉田政権は朝鮮人学校の強制閉鎖を敢行したのである。
【まとめ】1949年の朝鮮人学校閉鎖が、吉田政権による法律や政令の濫用であったとなれば、私立学校等として認可を得ていた朝鮮人学校に対する強制閉鎖そのものが違法・無効となり、現在に至る朝鮮学校に対する様々な差別、排除をめぐる議論や法解釈も、根本的な見直しを要することだろう。(岡本雅享)