『婦人之友』1938年9月号(昭13)より

三田村和子伯母は、三田村篤志郎=(河本)露子夫妻の四女、6番目の子供であった。

長女 道子1911生 最初の夫 安川真、戦死詳細不詳 当時の道子伯母の年齢から考えると20歳までには結婚していたのではないか。(結婚写真はあるが日付が無い) 101歳にて没。

次女 隆子1912生 104歳にて没、召天。

長男 忠重1914生 (1945/3/20戦死、フィリピンだったと思う)

三女 春  1915生 (1940/12/23死去、聖心女学校時代に結核発病し25歳頃死去) 

二男 二郎 1916生 (1919死去、当時の幼年の死去にて死因は分からない)

四女 和子 1918年2月21日生(大正7)、戸籍名は和だったかも知れない。

三男 恭三 1919生、海軍軍医 南方にて捕虜となる H20没

四男 (河本)純一 1921生 (父、あらかじめ祖父母の養子となる取り決めだったと思う、1945海軍軍医 呉海軍病院勤務 すでに南方に行く船も石油も無かった。1980年没)

五女 敦子 1925生 90歳没


 

 

この号は、たまたま「三田村篤志郎」で見かけて、ネットで購入した。巻頭の「口繪」頁に「有名人」の近況が何人か載っており、クリスチャンで病理学者の三田村篤志郎が掲載されていた。

当時51歳、たまたま病気となり入院、以前から親戚らの病理解剖を行ってきたが、そろそろ自分の順番か という内容。実際は1963年まで生存。(この記事の右頁は鮎川義介である)

三田村篤志郎は、旧伝染病研究所所長だったが、結核発症により1944退職(これは幸運だったかも)敗戦時に所長であれば、いろいろ追求された可能性もある。
 


中央の三田村和子伯母は、この時20歳になる。私の記憶はこれから20年後ほどになるが、
(それ以前の写真とも)かなり印象が異なる。道子、隆子伯母たちと似ている。

この後、もちろん戦争が激化し、帰国して、戦後も大変な時代となるが。ただし年長の従姉妹は1946年生まれなので、戦後すぐにか結婚したはずである。
 

下に、1942年の写真がある。右端が和子伯母と思える。
後列左から、齋藤眞(南方で捕虜)、三田村忠重(戦死)、三田村隆子、齋藤勇、三田村篤志郎、(三田村?)道子、三田村恭三 (純一がいないのは、千葉大学医学部か)
前列椅子は、齋藤文子(富美子とも)、河本香芽子、三田村露子。
末っ子が芝生に座る、白百合女学園の三田村敦子、自由学園の齋藤富士子。

 

河本香芽子喜寿とのことだが、1866年7月13日(旧暦?)誕生、しかし服装は夏服ではない。
当時は数え年か。



三田村和子北京に行く(続)

 

旅先からの電報によると釜山、大邱を経由して北京に着いたようだが、朝鮮からは、当時の満州国奉天に入った模様だ。(婦人之友巻末の「おとづれ」欄に、「投書」として掲載されていた。
 

 

この後の北京の体験などは、残念ながら、今は分からない。この後の「婦人之友」を見ていけば、掲載されているはずだが

上記の写真により、1942年には帰国していたようだ。
北京生活学校自体は、敗戦時まで存続、1946年3月、女子北平生活学校となり、日本人指導者は離れた。(『自由学園100年史』pp.577-578)