第159回 箴言17章 聖書通読

【期間】2/4(日)

【通読箇所】箴言17章

【聖書箇所と感想】

箴言 17章

1乾いたパンの一片しかなくとも平安があれば

いけにえの肉で家を満たして争うよりよい。

2成功をもたらす僕は恥をもたらす息子を支配し その兄弟と共に嗣業の分配にあずかる。

3銀にはるつぼ、金には炉、心を試すのは主。

4悪事をはたらく者は悪の唇に耳を傾け 偽る者は滅亡の舌に耳を向ける。

5貧しい人を嘲る者は造り主をみくびる者。災いのときに喜ぶ者は赦されない。

6孫は老人の冠、子らは父の輝き。

7高尚な唇は神を知らぬ者にふさわしくない。うそをつく唇は高貴な者に一層ふさわしくない。

8賄賂は贈り主にとって美しい宝石。贈ればどこであろうと成功する。

9愛を求める人は罪を覆う。前言を翻す者は友情を裂く。

→この世では権威ある人のところに人が集まり、貧しい人のところからは人が離れていく。誰かに不幸があった時、相対的に自分が幸せになった気がして、喜ぶ人がいる。主はこれらのことを喜ばれない。日頃の何もない時の関係性も大事にし、弱い時にこそ近くにいる人となる。

罪人でありながらキリストの大きな愛による犠牲に救われたクリスチャンは、人の小さな悪に注目しない。自分こそ罪人の代表であることを自覚する。しかしいつまでも罪人に甘んじていてはいけない。同じ過ちを繰り返さないように聖霊の助けを受けて神様と繋がり続け、霊的緊張を保って力強く生きる。


10理解力ある人を一度叱責する方が 愚か者を百度打つよりも効き目がある。

11悪人は逆らうことのみ求める。彼には仮借ない使者が送られるであろう。

12子を奪われた熊に遭う方が 愚か者の無知に会うよりましだ。

13悪をもって善に報いるなら 家から災難は絶えない。

14いさかいの始めは水の漏り始め。裁判沙汰にならぬうちにやめておくがよい。

→クリスチャンは悪に善をもって報いることができる。もっと大きな悪が主の愛によって許されているから。他人の欠点に気を留めず、憎むことのない良い心でいること。


15悪い者を正しいとすることも 正しい人を悪いとすることも ともに、主のいとわれることである。

16愚か者が代金を手にしているのは何のためか。知恵を買おうにも、心がないではないか。

17どのようなときにも、友を愛すれば 苦難のときの兄弟が生まれる。

18意志の弱い者は手を打って誓い その友のために証人となる。

19罪を愛する者は争いを愛する。戸口を高く開く者は破れを招く。

20心の曲がった者は幸いを受けない。舌をもって欺く者は災難に陥る。

21愚か者を生めば悲しみがあり 神を知らない者の父に喜びはない。

22喜びを抱く心はからだを養うが 霊が沈みこんでいると骨まで枯れる。

23神に逆らう者は人のふところから賄賂を取り 裁きの道を曲げる。

24分別のある人は顔を知恵に向け 愚か者は目を地の果てに向ける。

25愚かな息子は父の悩みとなり 産んだ母の苦しみとなる。

26神に従う人に罰を科したり 高貴な人をその正しさのゆえに打つのは いずれも良いことではない。

27口数を制する人は知識をわきまえた人。冷静な人には英知がある。

28無知な者も黙っていれば知恵があると思われ 唇を閉じれば聡明だと思われる。

→クリスチャンとして、主が求める私でいられているか、絶えず聖書のことばと祈りとで自分を吟味する。自分が悪くないのに不利な扱いをされているなら、相手に非がある可能性がある。神様との深い関係性の中で自信を持つことも大切。