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第三章 アメリカ・デラウェア州ウィルミントン - 5

その後、デュパン社は、イレーヌの長男アルフレッドに引き継がれ、三代目にヘンリー、

そして四代目アレックスから五代目ピエールの代となり、現在の社長は十六代目にあたる

チャーリー・マンデーである。

マンデー社長は引き続き企業の合併と買収戦を推進する意向である。

マンデーは、技術力のある企業の買収や成長分野への投資で、一株当たりの利益を

年率10%伸ばす考えをもっている。

そして、グローバル企業としての資源の選択と集中により、収益の確保はできると確信している。

その収益源は、安全と防衛部門、電子と情報部門、塗料と色材部門、高性能材料部門、

農業と食品部門の五部門に経営資源を集中する。

2010年にはバイオ関連事業の売り上げは、2005年と比較して、25%から30%に構成比を

高める戦略である。

そして地球規模としての投資先は上海のバイオ研究センターである。

脚注:

デラウエア州はアメリカ東海岸に属する、小さな州であるが、アメリカ大企業の法人登記数は

断然他を引き離している。ここの会社法は企業にとって便利にできており、節税にも大変有利

であるからである。

デラウエア州はデュパン家の州なのである。


第三章 アメリカ・デラウェア州ウィルミントン -4

火薬製造は危険な事業であり、デュパンは従業員を危機から守るために細心の注意を払った。

製粉は互いに遠く離れた沢山の作業場で、遠隔操作によって行われた。

これらの作業場は、三方面を厚い壁で仕切り、残りの一方面は爆発が起きても爆風が逃げる

ように川に面して作られた。

現在でも業界標準とされる安全な工場設計であったが、爆発事故で作業員が死亡する事故を

皆無とすることはできなかった。

事業は繁栄したが、イレーネはあまり財産を蓄えなかった。

利益の大半、それどころか、自分の報酬も、事業拡張のために資金を投入した。

一方、兄のビクトル・デュパンは羊を育てて毛織物を作るのどかな職業を選んだ。

物静かで勉強好きなイレーネが爆薬を作り、情熱型のビクトルが羊を飼育する職を選んだ。

人生とはこんなものだ。

この対照的な職業生活にもかかわらず、兄弟はよく似た死に方をした。

ビクトルは1828年、フィラデルフィアへの旅の最中に心臓発作で路上で倒れ、ユナイテッド・

ステーツ・ホテルに運ばれたが、間もなくここで亡くなった。

六年後、イレーネもフィラデルフィアを訪問中に路上で倒れ、同じホテルに運ばれた末、

ほぼ同じ歳、同じ原因で亡くなった。

第三章 アメリカ・デラウェア州ウィルミントン - 3

元大統領ジェファーソンはデュパンに火薬の製造を要請したのである。

火薬はすでにアメリカでも製造されるようになっていたが、品質がよくなかった。

ジェファーソンはデュパンなら品質の良い火薬を作れることを知っていた。

イレーネは、ブランディワイン川のほとりに火薬工場を建てた。

この工場はまもなくして世界一の火薬工場になった。

火薬を製造する工場設立に必要な資金のないデュパンは、その資金をフランスの

投資家に求めた。その大半は時のナポレオン政権の外務大臣タレーランから調達した。

タレーランを中心としたフランスの投資家達は、デュパンに対する投資による利益よりも、

デュパンの弾薬によってイギリスの船舶が大西洋の藻屑になることによるフランスの

戦略的優位をねらって投資したのである。

独立戦争におけるアメリカの勝利、その後に続くアメリカ独立は、デュパンに負うところ

が大きい。

戦争後も、デュパンは成長を続け、爆破用火薬は高速道路、鉄道、運河を建設する場所

を切り開くのに役立った。


第三章 アメリカ・デラウェア州ウィルミントン - 2

このような歴史と伝統をもつデュパン・ブランドはどのようにして、作られてきたのであろうか。

その成長の過程を振り返ってみる。

デュパン社は、二つの産業によって富と名声を獲得した。

火薬と繊維である。

どのようにして事業を起こしたかは興味あることだが、それ以上に関心を引くのは

フランス革命、アメリカ独立運動に軍事的、政治的にデュパン社が巻き込まれたことである。

エリュテール・イレーネ・デュパンは、革命前夜のフランスのヌムールで1771年に生まれた。

イレーネ・デュパンは、現代化学の父と呼ばれたアントワーヌ・ラヴォワジェから爆弾を作る

方法を学んだ後、二十歳で彼は出版事業を始めた。

最初は科学についての冊子だったが、その後、政治問題を扱うようになった。

イレーネは、昼間は爆弾を作り、夜はフランス革命に関するパンフレット作りをして生活を支えた。

彼は穏健な君主主義者だったが、左右両陣営からの批判が激しくなり、危険な状況になり、

アメリカに亡命した。

イレーネを含むデュパン一家がロードアイランド州ニューポートに漂着したのは、1800年1月1日

のことで、アメリカでの新しい生活が始まった。

アメリカでの生活は楽ではなかったが、時がイレーネに味方した。

アメリカは独立戦争後も、相次いでイギリスとの戦いに明け暮れていたからである。


第三章 アメリカ・デラウェア州ウィルミントン -1

技術を基盤とする「サイエンス・カンパニー」であるデュパン社は、1802年アメリカ・デラウェア州

ウィルミントン市に創立された。

それ以来偉大な飛躍を重ねてきた。

西部開拓時代に黒色火薬を製造・販売する事業をスタートしてから百年。

そして次の数十年は合成樹脂、合成繊維、化成品、農産物保護、エレクトロニクス、エネルギー資源

などの分野へと多角化していった。

化学とエネルギーの時代だった。

その間、ナイロン、テフロンを始め、人々の暮らしと産業活動に多大な影響を及ぼす素材と技術を

次々と誕生させてきた。

創立当時からの「安全・衛生・環境に配慮し、高い倫理基準に基づき、社員の人格・能力を尊重した

経営をする」という経営理念は今も変わっていない。



第二章 パリー13

時計業界への進出も一時的に阻まれ、ゾウの革を素材とした最高級カバンの需要も一段落していた、

1960年、イル・バトン社に一大転機が訪れた。

ジャック・ルノーがイル・バトン社のCEO(最高経営責任者)に選任されたのである。

しかも、イル・バトン社の発行株式の過半数をもった、実質共にオーナー経営者になったのである。

企業経営の経験不足のジャック・ルノーは、始めは慎重におそるおそると改革の道を歩み始めたが、

その後は、だんだんと加速がついてきた。

イル・バトンには、最高のブランドが残されていたし、カルチャーと違って、資金不足で経営が

他社に渡った歴史はない。

あのリックが残したダイヤモンドの現在価値はアメリカドルに換算して、実に三十億ドルにもなっていた。

ラザール・フレールがこの資産をずっと運用していたのである。

時は機たれリ。ジャック・ルノーとアラン四世は、パリのオルリー空港から、アメリカ、デラウェア州

ウィルミントンに向けて、パリを離れた。

機はニューヨークに立ち寄り、ウィルミントンに入る予定になっていた。

デュパン社の最高幹部と新製品の開発に関する長い長い付き合いの始まりであった。


第二章 パリー12

「そこまで考えていたのですか」

「ハイ。家族だけで、チョボチョボやっていけた時代はもう終わったような気がします」

「うーん。おっしゃることはよくわかりました。素晴らしい人材が一人いるのです」

「本当ですか」

「ジャック・ルノーといいます」

「ジャック・ルノー?」

「彼は、エコール・ポリテクニークを優秀な成績で卒業し、その後アメリカに渡り、

 ペンシルバニアのワートン・スクールで経済学の博士号をとりました。

 たしか、彼の主任教授はノーベル経済学賞を受賞していたはずです」

「ジャック・ルノー氏は現在どこにいるのですか」

「世界銀行のチーフ・エコノミストとしてワシントンで先進資本主義国のマクロ経済分析と

 金融問題の研究をしております。

 言葉のほうも、母国語のフランス語以外に、英語、スペイン語、イタリア語、ドイツ語を

 自由にあやつれるそうです」

「そんな人材がイル・バトン社のようなチッポケな会社にきてくれるでしょうか」

「条件次第だと思う。まず権限を与えて、思い切り彼に経営をまかせてみれば。

 イル・バトンのブランドは彼にとって、たいへん魅力的だと思うがね」

「そうでしょうか」

「大いに自信を持ってください。アランさん。早速、私が彼に話をしてみましょう。

 来週には、アメリカの投資銀行の連中とニューヨークで会議が予定されているので、

 帰りにはワシントンに寄って、世界銀行で彼に会うよう、スケジュールを調整しよう」

第二章 パリー11

ラザール・フレール。フランスきっての投資銀行家をアラン四世が訪問したのは、

その翌日だった。

「フレールさん。私は今後、経営から身を引きカバン職人として、生きていこうと決心しました。

ついては、イル・バトン社のトップになる人材を是非ともスカウトしていただきたい」

「イル・バトンのブランド、財務内容は超一流。そのことは良く存じておりますが、

一体全体、何があったのですか。アランさん」

「実を申しますと、イル・バトン社の経営方針が今後大きく変わろうとしています。

 ご存知かとおもいますが、あのゾウの革で作られた堅固なカバンは今後作れなくなるでしょう。

 素材も残り少なくなってきましたし、このような高価なカバンを買える顧客も少なくなりました。

 これからは、新しい素材を求めてアメリカの大企業と交渉しなければならなくなるでしょう。

 私は、英語も得意ではありませんし、契約に必要な法律知識もありません。

 是非とも、優秀な人材の確保が必要なのです」

「それで、貴方は今後どうするのですか。経営にタッチしないのですか」

「その通りです。イル・バトンの経営から身を引きます。そして、たんなるカバン職人として、

 イル・バトンに貢献したいのです。

 私の所有しているイル・バトン社の株券の過半数を分け与える事も考えております」




第二章 パリー10

アラン四世は、シャンゼリゼ・リドの近くの瀟洒な建物の中に入っていった。

カルチャーの本社である。

三階の社長室にはジャン・ドロンが待っていた。

「やあ、ベルモントさん。今日は」

「こちらこそ、よろしく」

「ところで、お話とは何でしょうか」

「単刀直入に申し上げます」

「どうぞどうぞ、ハッキリおっしゃってください」

「実は、イル・バトン社も時計の製造販売を考えております。

 ついては、御社に何かと協力していただければと」

「イル・バトンが時計を作るとはねぇ」

「問題がありましょうか」

「ハッキリ申します。この業界には、イル・バトン社が参入する隙間はもう残っていませんよ」

慇懃無礼とはこのことか。

シャンゼリゼ通りを赤いポルシェを乗り回しているプレイボーイのジャン・ドロンに

対する敵愾心を感じたのは、この時が始めてだった。

カバン職人にすぎないアラン四世は、カルチャーのドロン社長を凌駕する人材のリクルートを

心に誓って、カルチャーの社長室を退室した。


第二章 パリー9

オット社長の表の参謀がジャン・ドロンなら、裏の参謀はサルバドール・アッセイである。

第二次世界大戦後、真珠で身代を作った業界のフィクサーでもある。

ニューヨーク五番街、19ストリートの古ぼけたビルのオーナーである。このビルこそ、ニューヨークでの

ダイヤモンド取引の中心地である。

アッセイはダイヤモンドばかりでなく、ビルマ(現ミャンマー)でのルビー、サファイアのオークションに毎年

でかけている。

そして、最高級品はかならず競り落としていく、恐ろしい男である。

カルチャーの高級宝飾品の多くを所有しており、世界中の高級宝飾品の顧客、トップ千人とはなんらか

のつながりをもっている。

ユダヤ系のアッセイは、世界の金融街の大立者、アラブの石油王、紛争国に武器を売る「死の商人」達、

みんな彼の顧客だったのである。

カサブランカのリックをウォール街から静かに脱出させたのもアッセイだった。

アメリカ政府を陰で動かす力をアッセイはもっていた。


イル・バトン社の顧客の多くは、これまたカルチャーグループの顧客だったのである。

「旅」を基本コンセプトとする、イル・バトン社は、旅に必要とするカバンビジネスから、時計ビジネス

にも進出するプランをもっていた。