ブルーの「書自由也」ブログ -150ページ目

減圧室健康法の酸素ドーム初体験入室

郡山市のリラクゼーション進盟での初体験入室してきました。

<体験概況>
まるで、潜水艦か宇宙船の模擬船室に乗り込む感じ、20cm四方のまど4つあるのみ。
減圧は、5分間ほどで、その後は、インストラクターが減圧を手動で調整した。
私は、50分間キーンという耳鳴りが続いた。息抜きしたときは戻るがまた耳鳴りという繰り返し。
体温は、手のひらで測定したものです。下記の通り3人とも、上昇しています。
ただ、糖尿病のSさんは、病人であり変化は少なかった。

①回目9:00~9:50 8人 ②回目10:00~10:50 8人 ③回目11:00~11:50 9人
S ①34.0→33.7→34.3 +0.3  ②   ③33.7→33.7→34.8→35.3 +1.6 (単位:度)
K ①32.4→33.8→34.3 +1.9  ②   ③34.2→34.5→35.2→35.6 +1.4
Y ①32.7→33.4→33.6 +0.9 休憩  ②31.1→32.4→33.7→33.7 +2.6 
S,Kさんは、②回目は、計測記録なし

帰宅して2時間半経過して、まだ手の平は、暖かく感じています。

写真は、減圧室の様子、内部から携帯も使用可能とか
ブルーのブログ-減圧室1 ブルーのブログ-減圧室2

今回は、初回でもあり、10回ぐらいは続けないと、効果らしいものは無いと思いました。
インストラクターの話しでは、遠方の仙台から来た方は、5回ほどやっていかれましたとのことでした。
1人が、気分悪いということで出たいといったところ、インストラクターが横になって言って、足を高くして横に寝させたところすぐ良くなった。
静脈血栓塞栓症(じょうみゃくけっせんそくせんしょう)=エコノミークラス症候群の2人は、よくなっていかれましたとのことでした。

「減圧室健康法」を紹介

書とは、関係ない情報ですが「減圧室健康法」を紹介します

 これは、福島県いわき市在住の川上進盟(かわかみゆきちか)さんが、「世界初の減圧室健康法の4年間」成果として初めての講演会を福島市で開催していただきました。
 ガンのステージ4の方(すい臓、前立腺ガン、脳腫瘍、胸腺腫、肺がん、胃がん、直腸ガンなど)、アトピー、人工透析者、糖尿病、リュウマチ患者など、元気に生存という驚く内容でした。

 方法は、減圧室(酸素ドーム)で私たちの体のATP(アデノシンサンリンサン) を最大にすることで体温が2度ほど上昇させることで、免疫力を向上させるようです。薬は止めて週2回ほど入ると良いとのこと。
<特許申請中>だそうで、原理は丸秘ということでした。
 現在、通っているという乳がんの女性も来て、体験を発表してくれました。
 医療関係者とさらに研究・改善や技術向上をしていきたいとのことでした。


ブルーのブログ-減圧室健康法


魯迅公園の路上書道風景

上海旅行で、魯迅公園にいきましたら、3人ほど路上で書道をしていました。

水でアスファルトに丁寧に書いていました。通りすがりの人は、見たり踏んづけたりですが、一向に気にする様子もなく書いていました。筆をたくみに回したりしながら実に上手いものです。
中国では、紙に練習しないと聞いていましたが、まさにこれが書道練習にはうってつけなのかもしれませんネ

ブルーのブログ-魯迅 ブルーのブログ-書風景1
ブルーのブログ-書風景3 ブルーのブログ-書風景2


「周選松」さんの写真と書を紹介

上海旅行での雑誌に掲載されていた「周選松」さんの写真と書を紹介します。
なかなか日本では書かない文字を書いていました。
中国語は不明ですので翻訳は出来ませんのでお許しください。
もし翻訳できる方は、翻訳してお教えください。

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HISで上海・錦渓・蘇州・無錫・朱家角5日間

HISで、12/1~12/5「江南5都市周遊の旅~上海・錦渓・蘇州・無錫・朱家角5日間」

(成田発、全食事付、観光入場料・リニアー料金込み \27,800)に行ってきました。


錦渓の骨董館では、千字文字、蘭亭集序などの書を見れました。

ブルーのブログ-千文字

ブルーのブログ-蘭亭集序

寒山寺では、記念に楓橋夜泊の扇子を購入
ブルーのブログ-楓橋夜泊

上海博物館では、書道、篆刻の3Fを30分ほどで時間がなくゆっくりとは観賞できなかったのです。

3Fには、筆、石、印泥などの商品販売コーナーがありました。(下写真右)

1F出口では、書道などの書籍、掛け軸の販売もしていました。

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魯迅講演では、3人が水で道路に書道をしていました。

HomePage ニコニコ では



霽月(せいげつ) とは

霽月(せいげつ) と言う文字を書いていて、雨冠のしたに斎の昔の字齊を書いて「せい」は良いとして、
どんな月なのか?
辞書をひいてもなかなか見つからずでしたが、「雨上がりの後に雲のあいだに見える月」ということにいたりました。
なかなか、風情のある月ですが、霽月(せいげつ) と云うことは、勉強になりました。
ご存知でしたか


ブルーのブログ-霽月



上杉鷹山「成せばなる……」

墨雅 平成21年12月号 を日中うけとり皆川雅舟代表が下記の文章を記載していたのを読んだばかりでした。
たまたま、同日の夜半11/25NHKの歴史秘話ヒスとリアで直江兼継、上杉鷹山を取り上げていて、そこで「成せばなる……」を上杉鷹山が詠んだと話していたのでした。(以下は、皆川雅舟代表の全文)

成せばなる成さねばならぬ何事も 成らぬは人の成さぬなりけり
古歌にある通りである。大きな望みを成しとげるには、小さなことを積み重ねなければならない。
「ローマは一目にして成らず」という諺がある。昔強大な帝国を築いたローマも、その底には永い永い歴史が存在するのである。
書の道も同じことではなかろうか。一朝一夕にうまくなった人は居ない。技は常に磨いていないと退化してしまうのである。
"一日に一字習えば十日には、十字になるぞ習え久熊”。偶然にこのような古歌が頭の中に浮かんだ。久熊というのは私の覚え違いであるかもしれない。とにかくある親が子に教えた名言である。
子供の頃田舎の曲がり家に住んでいた。大きないろりがあって、横座といって一番正面の座に家長が座る。その手前横座に向って右手が家長の奥さんが座るかか座、向って左が客座といってお客さんが来た時にはお各さんが座る。家族の者はそれぞれ空いた席に自由に座っていた。
学校に上る前は、横座にはいつも祖父が座っていた。そして長い火箸でいろりの灰をならし、固まりを火箸でとってはいろりの角に積み、きれいに火箸でならしてはその上に文字を書いていた。
ある日、何気なく私が見ていると、祖父が何と書いているか判るかと聞く。判らないと答えると、これは○○と読む字だ。私が次々覚えていくと、祖父は次々と新しい文字を教えていく。いわゆるいろり学校である。
いろり学校はどのくらい続いたかは判らないか、次々と私が覚えるので、興に乗った祖父が次々と教えこんだので、小学校に上る頃には新聞の見出し文字はほとんど読めるまでになっていた。読めるといっても意味まではわからない。日本(にっぽん)は日本(ひほん)と別々に読めるだけである。それでも、新聞の見出しの漢字が小学校に上る前から大体読めるということで、一時は神童とも呼ばれていた。いろり学校のお陰である。
小学校四年までは、四キロほど離れた分校に通っていた。複式学級であるから、一年から四年までが一教室である。一列ずつ四列で各学年一列である。
多分その頃の一年生の国語の教科書は、”ハナ、ハト、マメ、マス、カサ、カラカサ、スズメガイマス、カラスガイマス…”といった内容だったようである。
四年生の新出漢字を先生が板書して、四年生に読み方を聞いているが、誰も読めない。
「誰か読める人……」と先生が全部の児童に聞く。
「ハイ……」と一年生の私が手を挙げる。
「皆川君……」
「ハーイ、○○です」
「一年生さえ読めるのに何だ……」ということになる。
これもいろり学校のくどくである。祖父にこれだけは感謝してやまない。
”十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの人”という諺があるがどうやらその類であったのであろう。
今は書の道をなりわいにしているのであるが、これは随分と長い経臨と歴史とを有している。
大体山の奥地で、一人で憧れているだけであるから、学校でお習字の時間が週一時間ぐらいあったものの、本格的な書道の先生というもものは居なく、憧れたのは文検という制度である。これは文部省検定試験を台ぢめた名称である。それに随分憧れたものである。独学で高等学校の教員となれる、唯一の近道であった。それも第二次世界大戦の末期にはなくなり、戦争の末期症状に近づいている最中だった。それでも諦め切れず、昼の激しい農事が終って夕食を食べると、九時は過ぎていたろうか。
朝起きると、墨のついた半紙がちらばっており、筆が机の下に落ちていた,それでも墨がついていれば、一応やったという証拠であるからカレンダーに丸をつける。
そんな状態が戦時中の勉強であった。とにかく向学の念を諦め切れない私の昔の姿である。それも祖父がともしてくれたいろり学校の効果の一つの現れであるかもしれない。
私の書への芽生えは、案外そのようなところに根ざしているのかもれない。
憧れは、あり余るところがらは生じて求ないものであるかもしれないもう一度最初の古歌を口ずさんでみよう。
成せばなる成さねばならぬ何事も 成らぬは人の成さぬなりけり
もちろん程度は論外であるのだが……

鉛筆と筆の歴史

20世紀の終わりに、日本で伊達政宗の墓所・瑞鳳殿から鉛筆 が発見された。
これはスイスのドイツ系博物学者コンラート・ゲスナーの使った(1565年)のとほぼ同じ構造(写真)で、鉛筆の本体は丸い筒状の木でできており、先端に黒鉛の小さな塊を詰めるものだった。
ブルーのブログ-伊達政宗の鉛筆
野外で化石を記録する際、インクつぼの不要な鉛筆はゲスナーにとって大変に便利なものであった。
鉛筆が一般に普及するようになったのは明治以後で、日本人は毛筆と墨汁をセントにした矢立てに不便を感じなかった。理由は、日空家屋は軒が大きく張り出しており、西洋建築に比べて屋内は暗いため、書物や手紙の文字は毛筆で太く大きく書かれたものてないと読みにくかったということらしい。
現代は、シャープペンシル、ボールペンへと進化していますネ



初孫

初孫が、12:49に誕生したのでアップします。
男の赤ちゃんです、不安なのか泣いていました。
ブルーのブログ-初孫

HISで、12月寒山寺へ

世界遺産 留園や錦渓の運河遊覧など水郷の古都巡り観光&小籠包など食事12回付
「上海・錦渓・蘇州・無錫・朱家角5日間 スーペリアクラス」を予約しましたので
2日目に観光する蘇州での寒山寺で有名な
ブルーのブログ-楓橋夜泊
唐の詩人張継の「楓橋(ふうきょう)夜泊」で詠まれた寒山寺の拓本
「月落ち烏啼いて霜天に満つ、江楓漁火愁眠に対す、 姑蘇城外の寒山寺、夜半の鐘声客船に到る」
を(A4サイズで)臨書してみました。

ブルーのブログ-楓橋夜泊臨