英雄項羽(こうう)は昔から詩文の上で問題にされ、その人物論は
今日まで多く残っている。
ここに紹介するものは、晩唐の詩人で、杜甫(とほ)に対して
小杜(しょうと)といわれた杜牧(とぼく)の詩であるが、項羽を
詠じた詩のなかでも特に有名なものである。
勝敗は兵家(へいか)も期すべからず
羞(はじ)を包み恥を忍ぶはこれ男児
江東(こうとう)の子弟才俊多し
捲土重来(けんどじゅうらい)いまだ知るべからず
これは「烏江(うこう)亭に題す」という詩である。烏江は項羽が
亭長から「江東へ帰れ」とすすめられたところであるが、
項羽は「敗戦の身で父兄に会わせる顔がない」と言って、
自らの頸(くび)を刎(は)ねたところでもあった。
項羽の死(前202年)後千年の月日を距(へだ)てて、いまや杜牧
が烏江にのぞむ駅亭(宿場)に佇(たたず)んでいる。彼は項羽の
人となりをしのび、その早かった死(三十一歳)を惜しんだ。
項羽は単純で激しい気性の人であったが、一面愛人虞姫(ぐき)
との別離に見るような人間的な魅力があった。
杜牧は考えた、「江東の父兄に対する恥を耐えしのべば、すぐれた
子弟が多いところだから、挽回の可能性があったのではないか」、
項羽を愛惜する情があふれている、といえる。
しかし項羽を批判する声も多いのだ。まず唐宋八家のひとり
王安石(おうあんせき)は、杜牧の考えに反対する詩を詠んだ。
彼は項羽の頽勢(たいせい)がどうしようもなかったといい、
「江東の子弟今在りといえども、あえて君主のために捲土
(けんど)し来(きた)らんや(もはや項羽のために捲土重来
などしない)」、と歌った。
司馬遷(しばせん)も「史記」のなかで、「項羽は力を頼み過ぎた」
と述べているし、やはり唐宋八家のひとり曾鞏(そうきょう)も同じ
ようなことを言っている。
項羽は賛否両論相半ばする問題の人物であったことがわかる。
「捲土重来」という言葉は、杜牧の詩から生まれ、「土煙(つち
けむり)を巻き上げて重ねて来る」ことから、転じて、「一度失敗
した者が再び勢力を盛り返す」ことを意味する。
ただし元来は、「巻土重来」と書く。
今日まで多く残っている。
ここに紹介するものは、晩唐の詩人で、杜甫(とほ)に対して
小杜(しょうと)といわれた杜牧(とぼく)の詩であるが、項羽を
詠じた詩のなかでも特に有名なものである。
勝敗は兵家(へいか)も期すべからず
羞(はじ)を包み恥を忍ぶはこれ男児
江東(こうとう)の子弟才俊多し
捲土重来(けんどじゅうらい)いまだ知るべからず
これは「烏江(うこう)亭に題す」という詩である。烏江は項羽が
亭長から「江東へ帰れ」とすすめられたところであるが、
項羽は「敗戦の身で父兄に会わせる顔がない」と言って、
自らの頸(くび)を刎(は)ねたところでもあった。
項羽の死(前202年)後千年の月日を距(へだ)てて、いまや杜牧
が烏江にのぞむ駅亭(宿場)に佇(たたず)んでいる。彼は項羽の
人となりをしのび、その早かった死(三十一歳)を惜しんだ。
項羽は単純で激しい気性の人であったが、一面愛人虞姫(ぐき)
との別離に見るような人間的な魅力があった。
杜牧は考えた、「江東の父兄に対する恥を耐えしのべば、すぐれた
子弟が多いところだから、挽回の可能性があったのではないか」、
項羽を愛惜する情があふれている、といえる。
しかし項羽を批判する声も多いのだ。まず唐宋八家のひとり
王安石(おうあんせき)は、杜牧の考えに反対する詩を詠んだ。
彼は項羽の頽勢(たいせい)がどうしようもなかったといい、
「江東の子弟今在りといえども、あえて君主のために捲土
(けんど)し来(きた)らんや(もはや項羽のために捲土重来
などしない)」、と歌った。
司馬遷(しばせん)も「史記」のなかで、「項羽は力を頼み過ぎた」
と述べているし、やはり唐宋八家のひとり曾鞏(そうきょう)も同じ
ようなことを言っている。
項羽は賛否両論相半ばする問題の人物であったことがわかる。
「捲土重来」という言葉は、杜牧の詩から生まれ、「土煙(つち
けむり)を巻き上げて重ねて来る」ことから、転じて、「一度失敗
した者が再び勢力を盛り返す」ことを意味する。
ただし元来は、「巻土重来」と書く。