今日は満州国について
 
~おしながき~
満州国とは
満州国とはどんな国だったのだろうか
ユダヤ人と満州
満州にユダヤ国家を樹立せよ!!~幻に終わった「フグ計画」
 
日本本土から離れた不思議な国。。
 
満州国とは
 満州国
(読み)まんしゅうこく

満州とは現在の中国東北3省(遼寧(りょうねい)、吉林(きつりん)、黒竜江(こくりゅうこう))で、1929年までは遼寧省は奉天(ほうてん)省といわれていた。「満州国」成立後は、熱河(ねっか)省も版図にし、1940年の行政区画では18省に分かれていた。同年10月の「満州国」臨時国勢調査によれば、面積約130万平方キロメートル、人口約4300万人、うち在満日本人は約82万人であった。近代における日本と満州の関係は古く、日本は日清(にっしん)戦争の勝利で遼東(りょうとう)半島を割譲させたが、ロシアなどの三国干渉で中国に返還。20世紀初頭、帝国主義の時代に入り、朝鮮・満州の支配をめぐり日露戦争が戦われ、日本は、関東州租借地と長春(ちょうしゅん)(寛城子)―旅順(りょじゅん)間(約735キロメートル)などの鉄道およびその付属の利権を獲得した。これが満州に対する日本の具体的利権の最初であり、その後の満州侵略の基礎となった。1906年(明治39)に設立された南満州鉄道株式会社(満鉄)は、鉄道や撫順(ぶじゅん)・煙台(えんだい)などの炭坑の経営とともに、鉄道付属地の一般行政権を付与され、また鉄道10キロメートルにつき15名の駐兵権を得て、あたかも満州の中の独立国の観を呈していた。その後、第一次世界大戦時の対華二十一か条要求、1928年(昭和3)、田中義一(ぎいち)内閣時の関東軍による張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件など、日本の「生命線満蒙(まんもう)」への要求はますます強まっていった。

 

満州国の成立
1931年9月18日、日本軍部中央と関東軍は、柳条湖(りゅうじょうこ)において満鉄線路爆破事件を起こし、これを口実にして張学良(ちょうがくりょう)の宿営北大営(ほくだいえい)と奉天城を攻撃、翌日中には満鉄沿線主要都市を占領する軍事行動を開始した。さらに関東軍の吉林攻撃を口実に、手薄となった奉天方面に林銑十郎(せんじゅうろう)朝鮮軍司令官は朝鮮軍を独断越境させた。さらに関東軍は南満州占領後、北満のチチハル、ハルビンを攻撃し、満州軍閥馬占山(ばせんざん)の抵抗などに直面したが、1932年初頭までには北満の主要都市を占領し、満州全体を支配下に置いた。一方、事件の中心人物、板垣征四郎(いたがきせいしろう)、石原莞爾(かんじ)、片倉衷(ただし)ら関東軍将校は、柳条湖事件直後から、当初の満州の軍事占領という構想を変更し、傀儡国家建設に着手し始めていた。彼らは国民革命に否定的な満州軍閥の煕洽(きこう)、張景恵(ちょうけいけい)、臧式毅(ぞうしきき)、張海鵬(ちょうかいほう)、干芷山(かんしざん)、馬占山らに強要して、各省を独立させ、さらに3月1日には、彼らの組織する東北行政委員会による「建国宣言」を発表させた。中国人自身による独立という形を整えたのである。この間、旧清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)擁立の動きも進行していた。溥儀は天津(テンシン)に亡命生活を送っていたが、奉天の日本軍特務機関長土肥原賢二(どいはらけんじ)大佐によって秘密のうちに満州に連れ出された。3月9日溥儀の執政就任式が行われ、「満州国」の形は整った。国名「満州国」(1934年帝政実施後は「満州帝国」、括弧(かっこ)内以下同じ)、政体「民主共和制」(「君主制」)、元首「執政」(「皇帝」)、年号「大同」(「康徳」)、国旗「新五色旗」、首都「新京」(旧長春、3月14日改称)とされた。

 

満州産業開発五か年計画

1941年をめどに「満州国」に対ソ戦準備の経済的基礎をつくる目的で、鉱工・農畜産・交通通信・移民の4部門での生産力拡充を目ざす五か年計画が、1937年4月から実施された。鉱工業では、鉄、液体燃料、石炭、電力などの基幹産業の確立を中心に広範囲の「産業開発」が目ざされた。計画実施直後、日中戦争が開始され、計画は鉱工業を中心として、資金面でみても25億7800万円から49億8900万円に拡大された。この修正計画の中心的使命を担ったのが鮎川義介(あいかわよしすけ)の新興財閥日本産業株式会社(日産コンツェルン)であり、これは同年12月に満州重工業開発会社(満業)として移駐改組された。資本金4億5000万円は日産と「満州国」が折半出資し、従来、満鉄に属した昭和製鋼所、同和自動車、満州炭鉱、満州軽金属などが傘下に入り、満州飛行機製造、東辺道開発などが新たに設立された。満業設立は満鉄改組問題の帰結でもあった。

 

満州農業移民
農業移民は関東軍が指導して、国内における農業恐慌対策と満州における国防・治安対策の目的で1932年から実施された。1936年までは試験移民として在郷軍人を中心に武装移民が送出された。1936年広田弘毅(こうき)内閣時に20か年100万戸移民計画が立案され、その第一期五か年計画の第1年目が1937年から実施された。長野県大日向(おおひなた)村に代表される分村移民や、山形県庄内(しょうない)地方に代表される分郷移民が、経済更生運動と連動して送出され、さらに1937年からは満蒙開拓青少年義勇軍として10代の青少年が送出された。1941年までを本格的移民期という。1939年末に「満州開拓政策基本要綱」が決定されたが、太平洋戦争開戦によって移民にも食糧生産などが課せられ、また1943年ごろからは労働力不足と船舶不足などで送出困難となった。移民の入植地は多くがソ満国境に近い北満の国防第一線地帯や治安不良の地域であり、また中国人農民の既耕地である場合もあった。移民数は約32万で、計画にははるかに及ばなかった。

 

太平洋戦争と満州国
第二次満州産業開発五か年計画は1942年から実施される予定であったが、太平洋戦争開戦によって、立案されただけで決定されず、実施されなかった。「満州国」は食糧と鉱工業原料の生産拡大を迫られたために統制が強化され、収奪的要素がますます増大した。協和会はこの中心的役割を担った。一方、関東軍は1943年春以降、兵力を南方地域や本土作戦に転用され弱体化していた。1945年8月のソ連参戦により「満州国」は崩壊、日本の無条件降伏後の8月17日に「解体」が宣言された。

 

 

 
 
満州国とはどんな国だったのだろうか
戦前に、今の中国の北東部に位置する場所に13年間だけ存在した「満州国」という国をご存知でしょうか。この満州国は日本が作った傀儡国家とされています。
 
満州とは、中国の東北地区(朝鮮半島の北側)の地名で、その土地はもともと中国の清王朝の土地でしたが、元々様々な民族が争奪し争ってきた土地で、明治時代以降は主にロシア帝国と清が支配していた場所でした。

日露戦争が満州統治のきっかけ

明治時代に起こった日露戦争(1904年)は、この満州と朝鮮半島の権益争いが原因でした。戦争でなんとか勝利を収めた日本は、ロシアとポーツマス条約を締結し、ロシアが満州に建設した鉄道路線の一部にあたる南満州鉄道の経営権、付属地の炭鉱の租借権、関東州の租借権を獲得はしたものの、戦争賠償金までは獲得することができませんでした。

最重要だった南満州鉄道の経営

もともと日露戦争に膨大な戦費を費やしていた日本にとっては、軍事費を回収できなかったことは痛手でした。日本はこの戦費をどうにか回収しなければいけない状況だったこともあり、日露戦争以降、南満州鉄道関連の経営権益は日本にとって朝鮮半島やアジア進出への足がかりとして重大な生命線と認識されるようになりました。

満州を統治した「関東軍」

南満州鉄道とその付属地の警備を目的とする守備隊は「関東軍」として日本陸軍の一つに数えられ、満州で大きな影響力をふるいました。ちなみに「関東」というのはいわば関東州(満州全体)のことを表す呼称で、日本の関東地方とは無関係です。この関東軍は次第に本丸である日本政府の意向を無視するような態度・行動をとるようにもなります。

満州事変(柳条湖事件)

その一つが関東軍が起こしたとされる柳条湖事件にはじまる満州事変(1931年)です。この満州事変により、関東軍は満州の主要都市を侵略し、占領しました。このときに占領した満州をどう支配するか、そこで出てくるのが「満州国」という傀儡国家を樹立するという発想でした。傀儡とはいわば“あやつり人形”のこと、つまり日本の意向に従う親日国家を作って満州での権益を独占しようとしたのです。

しかしこの満州事変の侵略が、国際社会から批判を受け、日本が国際的に孤立するきっかけにもなりました。この満州事変を中国が日本軍の「侵略」だとして国際連盟に提訴した事により、リットン調査団が現地に派遣され調査が実施されました。この報告書をうけて国際連盟は、“満州国の存続を認めない勧告案”を採択したのです。これを不服とする日本は、1933年3月に国際連盟を脱退してしまいます。
 
  満州国の建国理念

1.五族協和    満(満州民族)・蒙(モンゴル民族)・漢(漢民族)・日(日本人)・朝(朝鮮民族)の五民族が協力して暮らすこと
2.王道楽土    儒教で説かれている徳をもって治める理想的な政治体制(王道)で、理想国家(楽土)を建設すること
建国理念はとても崇高なものでしたが、現実は理想とは程遠く、民族同士の対立が絶えなかったといわれています。

満洲国執政・愛新覚羅溥儀

満州国の国家元首にあたる執政には、清王朝の最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)を擁立しました。この「執政」というのもあくまで建前的なものにとどまっていて、政治の実権は関東軍が握っていました。つまり、国際世論の批判を避けるため現地民族の皇帝を立てたのです。満州国の役人の半分近くは日本本土からきた日本人で、役職が高いほど日本人が占める割合が高かったといいます。また、民主的な選挙も一度も行われることはありませんでした。

2 満州国に移住した人々

2.1 満州に移り住んできた人々一覧

日本軍(関東軍)関係者
南満洲鉄道とその関連企業の関係者
日本の財閥系企業関係者
満蒙開拓移民
朝鮮人移住者
中国本土からの移民

 

満州関連企業関係者

満州国は新しい国で、人口も増えつつ経済的な発展も早かったため、日本企業だけでなく、外国企業も多く進出していました。そのため、開拓移民(主に農家)とは別に、企業の関係者も満州に移り住んできていました。自分の先祖がこのような満州関連企業の関係者だったという話は、今でもよく聞きます。

満蒙開拓移民

満蒙開拓移民は日本の国策として移住させられた日本人のことで、満蒙開拓団とも呼ばれます。多くは農地を相続できない農家の次男三男や、土地を持たない小作人で、日本本土(内地)からの移住者の大半を占めていたのがこの開拓移民です。

開拓移民は開拓地を国から分け与えられ、農業に従事することになりますが、戦争がはじまり日本兵が人手不足になってくると、満州に移住してからすぐに軍に招集されるケースが増えてきて、次第に移住先の村は女性・子供・老人ばかりになっていったといわれています。

満州では現地住民に恨まれることもしばしばで、移り住むには不安も多かったため、自ら進んで満蒙開拓団に手を挙げる人は実はほとんどいませんでした。そのため、拓務省(植民地の統治を監督する省庁)、農林省、自治体の長などが連携して開拓移民の人数集めのノルマ達成に奔走していたのです。

さらに日中戦争(1937年)がはじまると、大戦景気などの影響で本土の人手が足りなくなり、満蒙開拓移民の確保はより一層困難になりました。そこで考え出されたのが「青少年義勇団」という制度です。

満蒙開拓青少年義勇団

満蒙開拓青少年義勇団とは、日本本土の数え年16歳から19歳の青少年を満州国に開拓民として送出する制度です。日中戦争以降の、開拓民送出事業の中心になりました。本土から成人移民の確保が困難になったことから、より若い青少年が対象になったということです。この青少年義勇団だった方は当時かなり若かったため、今でもまだご存命の方がいらっしゃいます。

朝鮮人移住者・中国本土からの移民

日本の本土だけではなく、朝鮮半島から新しい環境を求めて満州に移住してくる朝鮮人もいました。当時の朝鮮は日本領だったため、“朝鮮籍の日本人”として満州に渡りました。さらに当時は中国本土では内戦が続いていたため、安住の地を求めて満州国に移住する中国人も少なくなかったといわれています。

このように、現地住民である満州人、漢人に加えて、日本人、朝鮮人、中国人、その他の外国人と、様々な民族が移民として満州国に移り住んだことで、満州は次第に複雑な問題を抱えるようになっていきました。さらに日本政府の積極的な国策によって満洲国内に用意された農地に入植する開拓民は増え、満洲国の人口は急激に増加していきました。

しかし一方で、関東軍が満州事変によって半ば強引に満州全域を支配した経緯からしても、現地住民からの反発は大きかったと伝えられています。そしてこの現地住民との軋轢は、終戦時まで民族間でずっとくすぶりつづけてきた問題だったのです。

 

太平洋戦争の勃発・終戦へ
1941年に太平洋戦争が勃発すると、日本軍は兵力不足を補うため根こそぎ動員を行った結果、満州移民の成人男性はほとんどいなくなり、日本人入植地は女性、子供、老人ばかりになり、土地を守る力は失われてしまいました。そしてさらなる戦況の悪化にともない、満州移民(日本人)の立場も不安定なものとなっていきました。

 

 


五民族が協力して暮らすことのはずが、ユダヤ人を入植?
ユダヤ人と満州
 

言うまでもなく、ユダヤ人はナチス・ドイツにより「アウシュビッツ」での虐殺などの迫害を受け、ヨーロッパ社会からの逃避行等を余儀なくされます。その一方で、当時から日本国内でもユダヤ人は経済界など各分野に国際的、かつ強力な影響力を持つ民族であるとして認識されており、その国際的影響力をこの機会に満州等に取り込み利用しようという構想が日本の政財界や軍部等の中のユダヤ通の人々により組み立てられました。

構想立案の中心となったのは、日本軍部の中でも「ユダヤ専門家」として知られる陸軍の安江仙弘大佐、海軍の犬塚惟重大佐、そしてかの日産コンツェルンの創始者であった鮎川義介(満州に名を馳せた「2キ3スケ※」の一人)、そして関東軍の中で満州進出を唱えてきた「大陸派」と言われる人々、かの板垣征四郎大佐(当時)、石原完爾中佐(当時)などでした。

 ※.満州国の政・財・軍の各分野で強い影響力を持った東條英機、星野直樹、鮎川義介、岸信介、松岡洋右の5人の実力者を言います。

ユダヤ人の国際的な影響力等を知る「ユダヤ通」の安江大佐らは、アメリカを説得することによりヨーロッパ諸国で苦境に陥っているユダヤ人数万人から数十万人を満州国あるいは上海へ移住させ、彼らの満州等への資本導入により、その強大な経済力の恩恵を受けようという目論見でした。

この計画は通称「河豚計画」と呼ばれていました。これはユダヤ人を、美味ではあるも猛毒を持つ河豚(ふぐ)に例えたもので、この構想の発案者の一人でもある前述の犬塚大佐が1938年7月に行った演説の中で、「ユダヤ人の受け入れは日本にとって極めて有益だが、その反面大きな危険も伴う」として、「これは河豚を料理するようなものだ」と語ったということによります。「ユダヤ通」であった安江大佐はきっとユダヤ人社会の持つ奥底知れない怖さも知っていたのでしょう。この「河豚計画」という呼び方は単なるニックネーム的なものとしてだけではなく、後にアメリカ側からも「Tha Fugu Plan」と呼ばれていること等からもかなり定着した呼称だったようです。

勿論、「河豚計画」は通称的なもので、正式な計画名は『ユダヤ資本導入に関する研究と分析』(1939年6月)として政府に提出、承認を受けています。このユダヤ人を満州に引き込むという構想は満州国建国(1932年=昭和7年)当時からあり、例えば、この構想の財界側の中心的人物でもあった前出の鮎川義介は1934年に、『ドイツ系ユダヤ人5万人の満州移住計画について』という論文を発表し、5万人のユダヤ人の満州受け入れと共にユダヤ系アメリカ資本の満州誘致を図り、また満州にまだ触手を伸ばすソ連に対する対ソ防壁ともするとしていました。

日本の軍部の一部の人たちがユダヤ人の力に関心を持つようになったのにはいくつかの理由がありましたが、その一つとして、ロシア革命(1917年)により故国を追われた多くの白系ロシア人が満州に亡命してきますが、この白系ロシア人たちの多くは、ロシア革命を起こしたレーニンやトロツキーなどの指導者層の中にユダヤ人やユダヤ系の人が多く含まれたことから、「ロシア革命はユダヤ人の陰謀」として「ユダヤ脅威論」を喧伝します。しかし、逆にそれがユダヤ人の持つ影響力の大きさについて、日本軍部の一部の人々等に関心を持たせる結果となったとも言われています。

その後、紆余曲折はあったものの、1937年12月に、安江大佐ら関東軍の協力の下、第1回極東ユダヤ人大会がハルピンの「モデルン・ホテル※」で開催されます。この大会には安江大佐や、後にユダヤ人2万人の命を救ったとされるハルピン特務機関長の樋口季一郎少将(次回に触れる予定)らが派遣されています。

※.ハルピンの繁華街でありロシア街でもある中央大街=キタイスカヤで今も営業を続ける、あのピンクの外壁のクラシックなホテルです。当時、ロシア系ユダヤ人の大富豪ヨゼフ・カスペがオーナーでした。

1937年1月には関東軍は「現下に於ける対猶太(ユダヤ)民族施策要領」を策定、満州国建国の精神として「五族協和」と共に掲げる「八紘一宇」の大精神に抱擁統合するとして計画を推進しようとします。そして、その後も、ユダヤ人自治区の構想について検討するための極東ユダヤ人大会がハルピンで重ねて開催されています。

関東軍に牽引された形で日本政府もこの構想の実現へと向かい、1938年12月の「五相会議」(当時の日本政府の最高意志決定機関で首相と主要大臣ら計5人により構成)において、「猶太(ユダヤ)人対策要綱」を決定します。この要綱で日本政府は、既にドイツ、イタリアとの間で「日独伊防共協定」(後のいわゆる「三国同盟」の前段階的協定)を結び友好関係にあったドイツを刺激しないように配慮しつつも、ユダヤ人排斥は人種平等の精神に合致しないとして基本的にはユダヤ人を保護する立場を取ります。

しかし、ヨーロッパのユダヤ人たちをソ連を介して満州へ移住させようとしたこの計画も、1939年、ソ連がドイツと不可侵条約(中立条約)を結んだことにより、ヨーロッパのユダヤ人たちの亡命、脱出はほぼ不可能となってしまいます。更にその年の9月、日本はドイツ、イタリアと三国同盟を結びユダヤ人を排斥するドイツと同盟国になったこと等から、この「河豚計画」も実質的に破綻することとなります。

ドイツと同盟国となった日本は日本国内でのユダヤ人らに対する締め付けも強化し、米英との開戦直前の1941年8月には神戸にいた多数のユダヤ人難民らを上海に移しています。そして、その後、この上海に住むユダヤ人難民に対しては、ドイツ側からの「廃船にユダヤ人を詰め込み、東シナ海に流した上、撃沈する」等の「処理」提案を受けますが、流石に日本はそこまでは受け入れなかったものの、いわゆる「上海ゲットー」と呼ばれるユダヤ人の囲い込み地区を作り、そこからの外出禁止等の措置を取っています。

こうして、満州でのユダヤ人自治区構想は幻の計画となってしまったわけですが、当時の日本軍部や満州財界等の思惑によりあのユダヤ人たちをもまた関わらせようとしていた、この満州という国の妖しさがまた煌めくかのような幻の「河豚計画」のお話でした。
 

 

 
 

満州にユダヤ国家を樹立せよ!!~幻に終わった「フグ計画」

荒巻義雄氏のベストセラー小説に『紺碧の艦隊』シリーズがあります。この小説中、もう一つの「第二次世界大戦」の歴史の中で、南樺太(サハリン)にナチス・ドイツの迫害から逃れたユダヤ人の為の「約束の地」として、日本が「東方エルサレム共和国」を建国させる、と言う場面があるのですが ── 実は、これには実際に一つの歴史上の「モデル」があったのです。すわなち、満州に「ユダヤ国家」を樹立させる!! と言うものです。結果的に幻に終わった訳ですが、今回は、荒巻氏が小説の中で甦らせた幻の「ユダヤ国家」について触れてみたいと思います。
時は1917年。日本をして二度の大戦争(日清・日露戦争)に駆り立てた脅威の帝国・ロシアは、共産革命によって呆気ない結末を迎えました。世に言う「ロシア革命」ですが、この革命を指導したレーニン等がユダヤ系だった事と、『シオン賢者の議定書』なるプロパガンダ文書の流布によって、ユダヤ人が革命拡大によって世界支配を目論んでいると言う「ユダヤ脅威論」が欧州諸国に拡大し、ひいては、ユダヤ人排斥運動を増長させる結果となったのです。そして、その急先鋒が、アドルフ・ヒトラー総統率いるナチス(国家社会主義ドイツ労働者党 略称:NSDAP)が政権を獲得したドイツ第三帝国だったのです。
一方、極東は満洲。ロシア革命の混乱の中、満洲へと難を逃れたユダヤ人に対する処遇を、日本は真剣に考える必要に迫られたのです。1931年の「満州事変」以来、日本は国際社会 ── とりわけ米国との関係悪化に苦しんでいました。日増しに強まる対日圧力と、日本の生存圏確保と言う二つの命題をどう解決していくか? その方策として考えられたのは、当時、「亡国の民」として国家を持たず、欧州において排斥の対象となっていたユダヤ人に「約束の地」 ── 定住の場を満州に設けると言う奇抜なアイデアだったのです。
「河豚(フグ)計画」。これがこのアイデアに対する暗号名(コードネーム)でした。この計画は、満州国内に「ユダヤ人特別自治州」を設置すると言うもので、ユダヤ人に対して高度自治権を付与する事実上の「ユダヤ人自治国」(内モンゴルにおける徳王の「蒙古自治邦」の様なもの:『もう一つの満州国、幻の「内モンゴル独立国」』参照)と言えるものでした。しかし、この計画はそれに留まるものでは決してありませんでした。「ユダヤ人特別自治州」の設置によって、世界中に散らばるユダヤ資本からの投資促進による満州国、ひいては日本の国力活性化をも企図していたのです。又、対日関係が日増しに悪化の一途を辿っていた当時の米国において、政財界に多大な影響力を持つユダヤ人ロビーが存在しました。その最右翼と言えるのが、反日家で知られ、フランクリン・ローズヴェルト大統領の側近でもあった世界ユダヤ人会議議長・ラビ・スティーブン・ワイズだったのですが、その彼を通しての対米融和工作(「日米開戦」と言う最悪事態の回避)をも企図していたのです。この為に、陸軍・安江仙弘(1888-1950 大連特務機関長)、海軍・犬塚惟重(支那方面艦隊司令部付上海在勤海軍武官府「犬塚機関」長)の両大佐が東奔西走しました。しかし、事態は思わぬ方向へと進んでいったのです。
1940年9月27日、日独伊三国同盟締結。翌28日、「フグ計画」の中心人物であった安江大佐が大連特務機関長を解任、予備役に編入され、安江大佐と在東京ユダヤ人キンダーマンによって、水面下で進められていた米国政府との直接交渉は、実現を目前にして潰えたのです。そして、同年12月8日、日本は遂に米英に宣戦布告。ここに「フグ計画」は事実上、終焉を見たのです。
戦後、シオニズム運動の高揚と、戦時中からの英国の「二重手形」(パレスティナ・ユダヤ両民族に対して、戦後、パレスティナの地に独立国家を建設する事を承認していた)によって、パレスティナ・ユダヤ両民族双方が、「同じ場所」(パレスティナ)に独立国家の建設を画策。結果的に、ユダヤ人が「イスラエル建国」(1948年)と言う形で独立国家建設を強行。その後の四次にわたる中東戦争の中で、大量のパレスティナ難民が生み出され、又、今尚続く「パレスティナ問題」として尾を引いてしまったのです。しかし、もし、戦前・戦中の激動の時期に「フグ計画」が実現し、満州の一部にユダヤ人の「約束の地」として「ユダヤ国家」が建国されていたとしたら・・・そして、英国が「二重手形」を振り出さなかったとしたら・・・ひょっとしたら、その後の中東戦争もパレスティナ問題も起こらなかったかも知れません。その意味では、ユダヤ人に対する「最終的解決」の好機を逸したと言う点で、非常に残念としか言いようがありません。

 

  

 

 

 

そして、731部隊ニヤリ

 

731部隊はどんな部隊だったのでしょうか?

 

~つづく~

 

今日も最後まで読んでいただきありがとうございました。

次回もお楽しみにバイバイ

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