今日はロスチャイルド家について
初代マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドについて調べてみました。
 
~おしながき~
世界の総資産の半分を支配した男、マイヤーロートシルト
ロスチャイルド財閥の始まり 放たれた5本の矢(子供達)
マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドとヴィルヘルム帝 
ロスチャイルド財閥のロシア・ソ連対策と野望の挫折
 
輝かしき一族の始まりニヤリ
 

世界の総資産の半分を支配した男、マイヤーロートシルト。

 

マイヤー・アムシェル・ロートシルト氏(Mayer Amschel Rothschild)
(1744年2月23日 — 1812年9月19日)、彼は銀行家という言葉だけでは表せないほど世界に影響を及ぼした人物であるといえるだろう。
マイアー氏はヨーロッパ最大財閥の一つである、ロスチャイルド家の基礎を築いた人物である。一族の総資産は35兆円とまで言われており現在もなお世界中に大きな影響力を及ぼしている。本記事では、そのロスチャイルド一族を作ったマイヤー氏、そして彼が作り上げた「ロスチャイルド家」に迫っていきたい。

 

熱心なユダヤ教徒の両親のもとで育つ。

マイアー氏は、1744年の2月23日、神聖ローマ帝国・フランクフルトのゲットーにユダヤ人の商人であっらアムシェル・モーゼスの長男として生まれる。父親は、熱心なユダヤ教徒であり、マイアー氏は小さい頃からラビになることを期待されていた。そのため幼くしてフュルトのラビ養成学校に入学することになる。しかし父親は彼が11歳の時に死去し、母親もその翌年1756年にに死去したため、学校を退学し働くことを余儀なくされる。
その後、親戚の紹介でハノーファー王国のユダヤ人銀行家オッペンハイム家に下働きとして雇われる。ここで、「宮廷御用商人」としての仕事のノウハウを学ぶのである。

※ラビ:ユダヤ教の指導者。 律法に精通した宗教的指導者の敬称。

 

彼が作り上げたもの「ロスチャイルド家」

ロスチャイルド家は世界で最も成功した一族と言われている。この一族を作り出したマイヤー氏は当初、数ある宮廷出入り商人の一人に過ぎなかったが、銀行家としてナポレオン戦争で大きな財を成したと言われている。その後、彼の息子である五人の兄弟がヨーロッパ中で5カ所に分かれ主に銀行業で事業をさらに拡大させた。五人の兄弟は、長男アムシェルがフランクフルト、二男ザロモンがウィーン、三男ネイサンがロンドン、四男カールがナポリ、五男ジェームスがパリで事業を行っていた。現在では、ロスチャイルド家は、主にM&Aのコンサルティングや投資銀行としての業務、そして富裕層の資産運用を行うプライベート・バンキング業務を中心に行っている。

 

ロスチャイルド家が財を成したきっかけ

ロスチャイルド家が大成功したのも、ナポレオン戦争のせいで綿花がドイツで不足して高騰したことに注目したマイヤー氏の三男、ネイサンが産業革命期にあったイギリスで大量生産された綿布を買い付け、ドイツで売ったことがきっかけである。これを元手に、ネイサンはロンドンの金融街に事務所を開き、これがロスチャイルド家のイギリスでの金融業の始まりとなる。また1806年、ヘッセン選帝侯となっていたヴィルヘルムの城下町ヘッセンにナポレオンが侵攻したことで選帝侯は国外逃亡しましたが、ロスチャイルドはその巨額の財産の管理を任されました。フランスの監視をかわしながら大陸中を飛び回って選帝侯の債権回収を行ったロスチャイルド一家は、回収した資金を選帝侯の承認の上で再投資し、大きな利益を得る。

 

競争優位を誰よりも早い情報管理が生む

一家の間の情報共有のため、ロスチャイルドは、専用の駅伝網を持ち、緊急時には伝書鳩も使い、また機密を含む手紙の場合はヘブライ語を交ぜて書くなど配慮していた。こうして整えた五カ国間の情報伝達体制は、結果として、欧州主要国に関するすばやい情報収集と共有を可能にし、それは貿易や金融においてロスチャイルド家が競合に勝つための武器にもなった。例えば、1815年、イギリス・オランダ・プロイセン(現ドイツ)の連合軍がナポレオンを打ち敗った「ワーテルローの戦い」は、ロスチャイルドにとってビジネスチャンスとなったのである。

 

ワデスドン・マナーは、そのロスチャイルド家のマイヤー・アムシェルの息子の一人で、ロンドンで成功したフェルナンドが社交のもてなしの場として、また彼の膨大な美術コレクションを展示する場として建造されました。それらのコレクションの数々は、パリのルーヴル美術館やニューヨークのメトロポリタン美術館にも匹敵するほどの価値があると言われています。5人の息子に全ての財産を託す。

 

マイアー氏の晩年は、ほとんどの事業を5人の息子たちに委ねていたとされている。彼は、事業を委ねる際に息子たちに「他の兄弟を無視して自分勝手な単独事業してはいけないこと」や「利益は持ち分に応じて分配すべきこと、女子に事業を継がせてはいけないこと」を言い聞かせ、その旨の誓約書まで提出させたといわれている。そしてその誓約を5人の息子達は忠実に守り、ロスチャイルド家をさらに大きくしていくこととなる。

 

 

ロスチャイルド家の基礎となるマイヤー・アムシェル・ロスチャイルド(1744~1812)の物語はフランクフルト市内にあったゲットー(ユダヤ人用の強制居住区)から始まる。ユダヤ人に苗字は許されず、各種の制約がついてまわった。マイヤー・アムシェルは番号の代わりに赤い盾の表札が掛けられた家に住んでいた。ドイツ語で赤はロート、盾はシルト。つまりロートシルトとは屋号であり、赤盾の家に住むマイヤー・アムシェルということになる。ロートシルトは英語ではロスチャイルド、フランス語ではロチルドになる。マイヤー・アムシェル一家は財を成すとより大きなグリューネシルト(緑の盾)の家に移り住んだ。

 

フランクフルトのユダヤ人がゲットーの外に店を構えることは許されておらず、マイヤー・アムシェルは王侯貴族相手に古銭をカタログ販売するところから始める。やがて有力な選帝侯に取り立てられて御用商人の銀行家となる。1760年代のことだ。マイヤー・アムシェルには10人の子がいた。そのうち男子5人をヨーロッパの大都市に送り込み、それぞれ銀行業を営ませた。ロンドンには3男のネイサンが送り込まれた。ユダヤ人は祖国を追われて以来、ヨーロッパ各地で差別や憎悪の対象となり、財産を没収されたり虐殺されたりと過酷な歴史を辿って来た。そのため、マイヤー・アムシェルは5人の子たちをヨーロッパ各地に散らし、リスクの分散を図ると同時に兄弟間の連携を強化した。ロスチャイルド家が大躍進するのはナポレオン戦争以降のことだが、今回はロスチャイルド発祥の地とも言えるフランクフルトのことを知ったかぶりする。だってフランクフルトで大躍進の狼煙(のろし)を上げたロスチャイルドが、幕末から明治にかけての日本に恐ろしいほど濃密に関わっていたことを知ってしまったんだもの。

マイヤー・アムシェルがフランクフルトで始めたロートシルト銀行に1人の若いユダヤ人が見習いとして入社してきた。名をオーガスト・ベルモントと言う。ベルモントは24歳の時にアメリカでのロスチャイルド家の利益を守るために渡米。その後、ロスチャイルドの代理人として為替や鉄道、不動産を扱う会社を起業し、同家に巨万の富をもたらした。米国の政治にも積極的に参加した。35歳の時、キャロラインという女性と結婚した。彼女の父はマシュー・ペリーと言い米海軍提督だった。その3年後、ペリー提督は黒船4隻を率いて来日。「オラオラ、開国せんかい」と大砲で幕府を脅した。ペリー来航は米捕鯨船乗員の保護、食料や薪の調達が目的だったと習ったが、背後にロスチャイルドがいたとなると話は別だ。目的は他にあったと見るべきだろう。

フランクフルトのゲットー。同じ緑の盾の家にシフ家が入居していた。1904年、日露戦争が勃発。高橋是清が渡英し戦費調達を試みたが目標の半分しか集まらなかった。ロシアとも通じていたロスチャイルドは表では支援を拒絶した。ところがそこに突然、ジェイコブ・シフ(米国籍)という銀行家が現れた。かつてロスチャイルド家と一つ屋根の下で暮らしていたシフ家の子孫で、渡米後はロスチャイルドの代理人となった。シフは日本が希望していた公債の残り半分を引き受けた。軍資金を得た日本はロシアを破った。明治天皇は感謝し、シフに勲一等旭日大授賞を贈った。幕末、そして明治の騒乱や戦争でフランクフルトにいたロスチャイルド家絡みのユダヤ人たちが複雑な役柄を演じていた。

 

 

ロスチャイルド財閥の始まり 放たれた5本の矢(子供達)  
ロスチャイルド家の先祖は、16世紀から代々、ドイツの北西部ヘッセン・カッセル州にある自由都市フランクフルト市内のゲットーに住む零細な商人でした。

フランクフルト・ゲットーには、後に国際金融資本家としてロスチャイルド家とともに覇権を握る事になるシフ家、バルーク家、カーン家、そしてウォーバーグ家も一緒に住んでいました。

ロスチャイルド家は、元々は屋号(通商)として「バウアー:Bauer」をの乗っていました。 

しかし、代々赤い楯(ドイツ語でロート・シルト:Roth Schield)の表札がついた店舗兼住居で暮らしていた事から、「ロート・シルト」という屋号(通称)を使うようになりました。「ロートシルト」の英語読みが「ロスチャイルド:Rothchild」です。

フランクフルトのユダヤ人が正式な苗字が許されたのは、ナポレオン占領下の1807年の事です。



ロスチャイルド財閥の祖マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドは、1744年にユダヤ人商人モーゼス・アムシェル・バウアーの三人兄弟の長男として、フランクフルトのユダヤ人ゲットーで生まれました。

当時、フランクフルト・ユダヤ人には家名がありませんでしたが、自称や呼称の家名はありました。彼の家は「ハーン」もしくは「バウワー」と名乗っていました。

店の扉には、店の印である鷲のついた赤い楯の看板が下がっていました。ドイツ語で赤い楯はRoth Schield だったので、バウワーは苗字をロートシルドと変え、5人の息子を表す5本の金の矢を鷲の爪に握らせました。

ちなみに、ロートシルドは、英語読みでロスチャイルドRothchildです。

マイヤーが生まれた1744年は、欧州ではマリアテレジアの夫フランツ1世が神聖ローマ帝国皇帝に即位した年で、日本では、第11代将軍、徳川家斉(1773年-1837年)の時代と重なり、寛政の改革(1783年-1793年)があった頃のお話です。 

マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド(ロスチャイルド財閥の祖)
1764年ドイツ・ロスチャイルド商会創設

アムシェル・マイヤー・ロスチャイルド (長男)
父マイヤー・アムシェルが1812年に死去とともに、ドイツ・ロスチャイルド商会を引き継ぐ

サロモン・ロスチャイルド  (次男)
1820年オーストリア・ロスチャイルド商会創設

ネイサン・ロスチャイルド (三男)
1804年イギリス・ロスチャイルド商会創設

カール・ロスチャイルド  (四男)
1821年イタリア・ロスチャイルド商会創設

ジェームス・ロスチャイルド  (五男)
1817年フランス・ロスチャイルド商会創設

マイヤーの父は、モーゼス・アムシェル・バウアーと言い、赤い楯の表札を掲げて、質屋や両替商を営んでいました。

当時のドイツは、350の公国などから構成され、それぞれが通貨を持っていたので、通貨同士の両替が必要だったのです。

天然痘が猛威を振るった1755年頃、マイヤーは両親を亡くし、中部ドイツ・ハノーバーの領主の宮廷ユダヤ人銀行家となっていたオッペンハイム家に奉公に出て、6年後に、フランクフルトのゲットーに戻ってきました。


彼は古銭商を始め、1764年頃にフランクフルト・ロスチャイルド商会を設立しました。

1770年、ユダヤ人のグーテレと結婚したマイヤーは、店の二階で暮らし、一階で古銭や絵画や家具など雑多の商品を売買しました。

夫妻は20人の子供を産み、ゲットーでは良くある話ですが、10人がすぐになくなり、10人が育ち、そのうち5人が娘で5人が息子でした。



やがてマイヤーは、ほぼ同年齢のヘッセン領主ヴィルヘルム公(1743ー1821)を古銭商売の上客とすることに成功します。

ヴィルヘルム公はフリードリッヒ2世の息子で、後のヴィルヘルム9世です。 またイギリスのジョージ2世の孫にあたり、ジョージ3世は従兄弟、加えてデンマーク王の甥で、スウェーデン王とは義兄弟という関係で、ヨーロッパの名門でした。

ヴィルヘルム公は、ヘッセンの若者を傭兵として鍛え、イギリス政府に、アメリカ独立戦争(1775-1783)をはじめとする植民地戦争のために、毎年1万5000人から1万7000人ほどを貸し出す傭兵ビジネスを営んでいました。

ヘッセンの領主と住民は古くから契約が交わされていて、傭兵代金は兵士たちに支払われました。 いうまでもなく領主が莫大なマージンを懐に入れ、

加えてヴィルヘルム公は閨閥を活かし、オーストリア皇帝をはじめとして王や貴族たち、さらには軍人・官史・各種産業に貸し付けを行って莫大な富を築き、ヨーロッパで一番の金持ちになりました。


マイヤーはヴィルヘルム公に気に入られて宮廷ご用商に任ぜられ、公がイギリス政府から受け取る傭兵代金の小切手を割り引いてがっぽりと儲けるようになります。

マイヤーはヴィルヘルム公の父親フリードリッヒ2世にも食い込み、その威光を利用して政界に足場を築き、王一族の秘密もことごとく把握し、商売に利用してゆきました。

マイヤーは裕福になると、1785年に、ゲットーのユーデンガッセ148番地の「緑の楯(グリーン・シールド)」と呼ばれるそれまでより大きな5階建ての家に移りました。

この建物の内部はふたつの区分に分かれていて、一方にロスチャイルド家が住み、もう一つは扉に「船」の絵を掲げたシフ家が住んでいました。

「船」をドイツ語では「シフ」といいます。 当時からずっとシフ家はロスチャイルド家と密接不可分でした。


後の19世紀の半ばになってからの話ですが、シフ家の子孫ジェイコブは、目先の利く少年で、ビジネスの大志を抱いて、1865年、18歳のとき、南北戦争後のアメリカに移住します。

彼はロスチャイルドの代理人となり、ウォール街の世界的銀行家になりました。 信仰心厚いジェイコブの父は銀行家でしたが、祖父以前は代々ユダヤ教のラビ(宗教指導者兼学者)を努めました。



ヴィルヘルム公は1786年、父フリードリッヒ2世の死に伴い、ヴィルヘルム9世となり、ヘッセン=カッセル方伯を継承し、当時ヨーロッパ最大級と言われた資産を相続しました。

マイヤーのフランクフルト・ロスチャイルド商会は、1789年頃、ヘッセン=カッセル方伯の正式な金融機関に指名され、借款の仕事にも携わるようになります。

1801年頃からはヴィルヘルム9世の個人の資産運用も委託され、大きな投資事業にも参加し始めました。

マイヤーの提案により、傭兵代金は、イギリスで直接投資に回されることになりました。彼はこのイギリスで投資に回されたカネを横領し、ロンドンにいる3男のネイサンに運用させたとも言われています。

さらにマイヤーは、「情報」をビジネスに結びつける仕組みを考えました。 神聖ローマ帝国の「駅伝郵便長官」職を世襲し、ヨーロッパ全土の郵便事業を独占していたテュルン・タキシス家と、彼は緊密な関係を築き上げました。

同家はヴィルヘルム9世やロスチャイルド家の内偵として活動するようになり、時には郵便に託された重要文書を不法に開封し、内容をヴィ流ヘルム9世やマイヤーに伝えたり、彼らに有利になるように手紙を急送したり、遅配したりの操作を行いました。

このようにして、マイヤーのビジネスは1790年代にヨーロッパ中で急速に成長し、マーチャント・バンカー(国際的な銀行家)としての姿を現していきました。

 


マイヤーの事業に関する勘の鋭さで財を成し、また5人の傑出した息子たちにより、5人それぞれが一大金融業者にのし上がりました。

彼らはフランクフルトの外に乗り出し、ヨーロッパだけでなく文明世界の金融の中心地のほとんどで事業を展開しました。


19世紀前半、ロスチャイルド家の兄弟は、英国、フランス、プロシア、オーストリア、ベルギー、スペイン、ナポリ、ポルトガル、ブラジル、それにドイツのさまざまな国々や他の小国政府の依頼で重要な取引を行いました。

ヨーロッパ各国の王家ご用達の銀行家でもありました。 また、代理人を通じてアメリカやインド、キューバ、オーストラリアといった遠い市場でも多額の投資をしました。

セシル・ローズの財務を委ねられて、南アフリカのダイヤモンド鉱山の独占権を確保したのもロスチャイルドで、今でもデビアス社とロスチャイルドは深い関係にあります。

 

 

 

マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドとヴィルヘルム帝  
ヴィルヘルム1世 WilhelmI.(1743年6月3日ー1821年2月27日)
在位:1803ー1821
ヘッセン=カッセル方伯としてはヴィルヘルム9世 Wilhelm IX.
在位:1785-1821

ヴィルヘルム1世は1743年6月3日にカッセルで生まれ、兄のヴィルヘルムが既に夭逝(ようせい=若くして死ぬこと)していたため世嗣となり、1785年10月31日に父のフリードリヒ2世が死去したためヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム9世となり、当時ヨーロッパ最大級といわれた資産を相続しました。また、1803年、ヘッセン=カッセル方伯に選帝侯の資格が与えられ、ヴィルヘルム9世はヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世となった経緯があります。

ちなみに方伯(ほうはく)とは、、神聖ローマ帝国もしくはかつてのその領域にできた諸国家で、「伯爵」の代わりに、神聖ローマ皇帝に封建的な義務を直接負っていた者に使用された称号であります。
 

ヴィルヘルム9世はロスチャイルド家の祖であるマイヤー・アムシェル・ロスチャイルドと1775年に知り合い、1801年から彼に財産の運用を任せるようになります。 ロスチャイルドはこれを機会に、現代まで続くロスチャイルド財閥の基礎を築くことになります。


ロスチャイルド財閥の祖、マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドは、11歳の時に父を、12歳の時に母を亡くします。  両親との死別後、ハノーバーのオッペンハイム商会に、見習い修行に出ますが、オッペンハイム商会には王侯貴族の宮廷に出入りする御用商人がいて、彼らは王侯たちに資金調達を行っていました。  

マイヤー・アムシェルは、ゲットー内の学校で、ヘブライ語の読み書きと聖書を学び、ユダヤ教のラビとなるべく教育されていたので、彼は歴史や古銭の知識が深く、古銭収集で知られていたエストルフ将軍と取引・親交を深めることによりその商才を磨くこととなります。

フランクフルトに戻ったマイヤー・アムシェルは古銭・メダル商を始め、1年後には、熱心な収集マニアであった欧州最大級の資産家であるヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム9世に古銭を売る機会を得て、これを機に、1769年「ヘッセン・ハーナウ候国宮廷御用商人」に任ぜられ、多くの財を成しました。   フランクフルト領主、ヴィルヘルム9世は、傭兵ビジネスで、欧州で第一の金持ちであり、ロスチャイルド家は徐々にヴィルヘルム9世の財産管理業務に食い込むことにより、財閥の基礎を築いてゆく事になります。

ヴィルヘルム9世は、1785年父の死によって個人のものとしてはヨーロッパ最大の財産(推定4000万ドル)を相続しました。  その財産は主としてアメリカ独立戦争鎮圧用の兵隊をイギリス政府に貸しだして得られたものです。

ナポレオン1世皇帝はドイツ平定の為に軍隊を投入し、1806年6月の戦いの後、領主ヴィルヘルム9世はデンマークに逃れ、60万ポンド(約300万ドル)の管理をロスチャイルドにゆだねました。

マイヤー・ロスチャイルドはヴィルヘルム候から託されたカネをぶどう酒樽に隠し、ナポレオン軍がフランクフルトに侵攻してきたときもその追及を逃れ、1814年に領主が領土に戻ってきた時、同じ樽から手つかずのまま回収されたと表向き公表されていますが、信じている人はいません。

真相は、マイヤーは託されたカネを葡萄酒樽にいれず、全額を息子ネイサンに持たせてロンドンに送り、ただちにそこにロスチャイルド・ロンドン分家を創ったとされています。

「ネイサンは、ウェリントン(ワーテルローでナポレオンを破った英国の将軍・政治家)の半島作戦(対スペイン遠征で金塊が必要になると予測し、そのカネで東インド会社から1億ポンドの金塊を買い、そこから得られた利益は少なくとも4つあるとされています。 ①ウェリントンの手形を売ることによって得た利益(彼は手形を50セントで買い、額面通りの額を徴収)、②ウェリントンに金塊を売ることによって得た利益、③その金塊を買い戻すことによって得た利益、④その金塊をポルトガルに贈ることによって得た利益。 ここで儲けた金がロスチャイルドの莫大な資産を築く発端であった。」 ユダヤ百科事典494ページ


この大金で、ロスチャイルド家は息子それぞれが当主となり、フランクフルト、ロンドン、ルリン、パリ、ウィーン、ナポリに分家を創ったとされており、各分家とも繁栄しており、特に、ロンドンとパリ家の繁栄は際立っています。

、1618-1648年のカトリックvsプロテスタントの30年戦争(宗教戦争)の戦いの場所となったドイツ、ボヘミア地方では、長期間の戦闘や傭兵達の略奪により、国土は興廃、人口は激減したドイツは、他のヨーロッパ諸国に対し、発展が約200年遅れたとされています。


しかしながら、ヴィルヘルム9世、マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドの時代に、富はドイツに流れ込み、ドイツは急速に発展するようになります。  このように、近隣諸国から遅れて急速に経済発展する国は、ナショナリズムが高揚しやすくなり、後のワグナーやヒトラーなどのドイツナショナリズムも無縁ではありません。

ロスチャイルド財閥発祥の地フランクフルトにEUの中央銀行(ECB:European central Bank)があり、戦争男爵ロスチャイルド財閥発祥の地にNATO最大の軍事基地がある事は、ロスチャイルドと無縁ではないでしょう。

 

 

 

 

 

ここに野望が詰まっている下差し

 
 
 

ロスチャイルド財閥のロシア・ソ連対策と野望の挫折
ロスチャイルド家の統一中央銀行構想がロシア皇帝によって打ち砕かれる
かつて、ロスチャイルド財閥の祖マイヤー・アムシェルはアダム・ヴァイスハウプトが興した地下組織のイルミナティに資金支援し、大陸欧州の中核的な大国であるフランスで大革命を引き起こさせ、カトリック教会や地方貴族に対する免税特権をはじめとする封建的な特権を廃止させた。そのうえで、ナポレオン・ボナパルトに独裁的な権力を握らせて皇帝に即位させ、英国でのイングランド銀行を模して同国でも中央銀行であるフランス銀行を設立させた。それにより、特に戦費調達を目的に大量の国債を発行させて中央銀行が引き受けることで、ロスチャイルド家が債権者として君臨することで実質的に支配しようとしたわけだ。さらにナポレオンに欧州全域を支配させることで、フランス銀行の影響力を欧州全体に拡大させようとした。
 ところが、ナポレオンがロスチャイルド家の意向に従わなくなると、マイヤー・アムシェルの三男でロスチャイルド家の2代目の当主となり、ロンドンの同家の祖となったネイサン・ロスチャイルドはこの独裁者を失脚させた。そのうえで、1814~15年に次兄でウィーンの同家の祖となったサロモン・ロートシルトを介してオーストリアの宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒにウィーン会議を主催させ、フランスで復古王政を樹立するなど表向き欧州を革命以前の状態に戻しながら、スイスを永世中立国としたうえでそこに欧州での統一的な中央銀行を設立させようとした。
 その野望を打ち砕いたのがロシア皇帝アレクサンドル1世だったのであり、強大な軍隊を派遣することをちらつかせて脅したことで、この統一的な中央銀行案は実現しなかった――俗に「会議は踊る、されど会議は決まらず」となったわけだ。それ以来、欧州ではロシア帝国は反ロスチャイルド的な“警察官”の役割を担うようになった。


ロスチャイルド家がロシア革命を引き起こして帝政を打倒した三つの目的
 それによりネイサン・ロスチャイルドは大陸欧州を拠店に世界覇権を握ることを諦め、本拠地である英国での世界戦略に特化していくことになり、それとともにこの小さな島国だけが覇権国になっていった。それとともに、ロシア帝国を崩壊させることを一族全体の家訓として遺したのであり、それが約100年後に実現することになったわけだ。
 ロスチャイルド財閥が支援していたイルミナティは19世紀を通して世界共産主義革命の最高指導者としてジュゼッペ・マッツィーニを指名して活動させていた。その死後、アドリアーノ・レンミによる“中継ぎ”を経てその後継者に据えられたウラジーミル・レーニンや、さらにその後継者とされたレフ・トロツキーにロシア革命を引き起こさせた目的は大きく分けて三つあった。
 その一つには当時、世界最大の金塊の保有者だったロマノフ王朝からそれを奪い取ることにあった。ロスチャイルド金融資本の権力の源泉はポンドの基軸通貨としての信用にあったのであり、それは金本位制を強固に堅持することでもたらされていた。ただ、そこでは資金供給量はイングランド銀行が保有している金塊のポンド換算分に一定程度上乗せした分だけに“教条的”に決められていたため、英国経済やひいては世界経済が“窒息状態”から脱するにはイングランド銀行が金保有量を増やす必要があったのである。
 またロシア革命を引き起こした二つ目の目的が、北方のロシア帝国が“不凍港(寒冷な冬季でも凍らない港)”の獲得を目指して南下政策を推進したことで、英国の植民地の勢力圏と衝突することが多くなったからだ。ロシア革命以前でも、中東・東地中海方面では露土戦争で「瀕死の病人」といわれるほど弱体化したオスマン帝国を支援し、クリミア戦争では英国やフランスが直接乗り出してロシア軍を撃退し、アジア極東では日本を支援して日露戦争に勝利している。
 そして三つ目が、大陸欧州での“警察官”を排除し、ロスチャイルド家がビジネスをやりやすい環境にするとともに、国際連盟の設立とともに統一的な中央銀行の創設を目指すためだった。

 


米ロックフェラー財閥に凌駕されロスチャイルド財閥の目論見は実現せずに
 しかし、ロスチャイルド家のそうした目論見は挫折していった。既に米国の経済力が欧州を圧倒しつつあったことで米ロックフェラー財閥が同家を凌駕しつつあったなかで、1929年10月24日にウォール街で株価が大暴落させられたことで、急激な信用収縮により欧州ではそれ以上に深刻な恐慌に見舞われてしまった。それとともにドイツではナチス独裁政権が成立してアドルフ・ヒトラーがユダヤ人迫害政策を推進したことで、アシュケナジー系ユダヤ人であるロスチャイルド財閥は致命的な打撃を受けてしまった。そしてロシアでも、レーニンが暗殺されてトロツキーも追放されたうえで逃亡先のメキシコで殺害され、ヨシフ・スターリンがその後を継いだ。ヒトラーもスターリンも分家と本家の違いはあれ、その背後に米ロックフェラー財閥がいたことは共通している。
 それにより第二次世界大戦が終わり、ロックフェラー財閥主導で米ソ冷戦体制を迎えることになった。そうしたなかで欧州ではロックフェラー財閥の傀儡であるスターリンの統治下にあるソ連軍の軍事的脅威に悩まされるようになり、北大西洋条約機構(NATO)による枠組みにより米軍の軍事力に安全保障を依存せざるを得なくなった。それにより欧州は米国の世界覇権の枠組みに組み込まれることになり、ロスチャイルド財閥は完全にロックフェラー財閥の軍門に下って今日に至っている。

デイヴィッド・ロックフェラーが管理してきたクレムリンの権力機構
 ソ連でスターリン政権が成立して以降、クレムリンは実質的に後に米国の覇権の絶頂期に「世界皇帝」として君臨することになるデイヴィッド・ロックフェラーが管理してきた。その後、ニキータ・フルシチョフ第一書記はロシア帝国の貴族の血筋を引いているだけあってロスチャイルド財閥に近く、だからこそ東西融和(デタント)を推進しようとしたのだが、デイヴィッドによって失脚させられてしまい、保守的なレオニード・ブレジネフ書記長に代わってそれまでの体制が存続することになった。
 米国の覇権が米ソ冷戦期での興隆期から絶頂期に移行する過程で、これまで当欄で述べてきたように中国では89年6月4日に天安門事件が起きた。その一方で、米国だけが唯一の超大国になるためにソ連を崩壊させることになり、それによりデイヴィッド・ロックフェラー直系の米外交問題評議会(CFR)を率いたズビグニュー・ブレジンスキー大統領補佐官主導で、サウジアラビアに原油価格を安定させるスウィング・プロデューサーの役割を放棄させて大幅に増産させ、原油価格を大幅に低下させることでソ連経済に致命的な打撃を負わせた。
 その後、ミハイル・ゴルバチョフ書記長(後に大統領、いずれも当時)がペレストロイカを推進したのもCFR系の路線に沿った動きである。ソ連邦が解体して新生ロシアの誕生とともに90年代に脆弱なボリス・エリツィン政権が成立したのは、米国の覇権の絶頂期が確立したなかで、欧州を軍事的な脅威で威嚇する必要がなくなったためだ。

 

次回はネイサン・ロスチャイルド (三男)

二代目ロスチャイルドは何をして地位を得たのか!?

 

今日も最後まで読んでいただきありがとうございました。

次回もお楽しみにグーグー

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