今日は7月20日。
津田恒実さんが亡くなられて30年経ちました。
「炎のストッパー」という代名詞があるように、リリーフ
投手としてのイメージが強いですが
私の記憶に最も強く残っているのは、昭和58年6月
4日、後楽園球場での完投勝利です。この試合は
私にとっての「レフトスタンドデビュー」でもあります。
首位巨人に9ゲーム差をつけられ、相手の先発は
すでに7勝を挙げている定岡。1回裏に守備のミスも
あって2点を先行されます。
しかし3回表、先頭の達川がセンター前ヒット。
続く津田の打球はレフトの淡口の前へ。ダイレクト
捕球ができず後ろにそらし、三塁打になります。
1番の高橋慶のライト前ヒットで同点。2番の山崎も
ライト前ヒットで続き、3番の加藤英司の打球を、
今度はセンターの松本が後逸。結局この回は、
5得点のビッグイニングになりました。
3回裏、衣笠のエラーがからんで1点を返されましたが、
4回表、高橋慶のホームランで再び3点差。
4回裏以降も何度か守備のミスが出ますが、津田は
無失点でしのぎます。
そして9回表、敗戦処理に出てきた堀内を打ち込んで
5点を追加。終わってみれば11-3の快勝でした。
この年、オールスター前に巨人を抜いて首位に立ちます。
山本浩二が絶好調でしたし、3年目の川口、2年目の
津田が不振の北別府をしのいで先発の柱となりました。
しかし夏場に入り、山本浩二、衣笠のバットがパッタリと
止みました。川口、津田にもバテが来て、9月下旬には
巨人に大きく離されるようになってしまいました。
津田は結局、肩をこわして9勝止まり。翌年は右手中指
の血行障害でほとんど出場機会がなくなりました。
しかし昭和61年、ストッパーとして復活。
この年の優勝争いは8月に阪神が脱落して巨人との
マッチレースになりました。
残り7試合(巨人は残り2試合)の段階で2.5ゲーム差を
つけられるという絶望的な状況にも追い込まれましたが、
中日に3連勝(4連戦だったので4タテ)、阪神に2連勝
します。
巨人は129試合目のヤクルト戦に敗れ、最終戦の大洋戦
は勝ったもののトータル75勝48敗7分。残り2試合を
残した広島は72勝45敗11分。10月12日、13日の
神宮での2試合のうち、どちらかに勝つか引き分ければ
優勝となります。
そして10月12日。広島の先発はローテーションでは
大野ですが、予想通り、すでに17勝を挙げているエース
北別府です(中4日)。ヤクルトの先発は横浜で監督も
務めた尾花さんでした。
1回表、1アウト満塁から長嶋清幸が満塁ホームラン。
その後点差を広げ、7ー0。レオンの3ランで追い上げ
られますが、小早川のホームランですぐ突き放し、
8-3で9回裏を迎えます。
「胴上げ投手」の概念がなかった当時、9回裏のマウンド
も当然北別府と思いきや、北別府は自らマウンドを津田
に譲ります。
9回裏は広澤空振り三振、池山レフトフライ、最後は
青島を見逃し三振でした。
結果、73勝46敗11分で優勝。巨人との引き分け4つの
差がモノを言いました。
「3時間20分を過ぎたら新しいイニングに入らない」
というルールがあった当時、「津田が締めて引き分け」
という試合もたくさんありました。4勝6敗22セーブという
数字以上に、優勝への貢献度があったと言えます。
今年は北別府さんが亡くなられましたが
衣笠さんや、古葉監督もすでにお亡くなりになっています。
そう考えると、随分と古い話になってしまったのかも
しれませんが
達川、大野、山本浩二など、津田より年上の解説者
もまだまだいます。当時ピッチングコーチだった
安仁屋さんも、体調がすぐれない中、頑張って
観戦されているようです。
そして、津田を目標にしていた永川は、現在、
二軍投手コーチです。
北別府さんのときにも書きましたが
引き継ぐべきDNAは、まだまだある。そして、
引き継がれたもの、引き継がれつつあるものも
少なくない。
そう思っています。