みんな元気ですか
レムリアの遺志
天体の衝突を誘導するような科学技術が
本当に存在していたのかどうかは
実際のところわかりません。
このブログでもたびたび登場するあの
エドガー・ケイシーの生まれ変わり
とされるデービッド・ウイルコックは
これが可能だったと思っている節があります。
上の写真の右がエドガー・ケイシーの
若いころ、左がデービッド・ウイルコック。
似てるといわれておふざけで当時の
いでたちで写真を撮ったそうです。
彼はグラハム・ハンコックとの対談で、
巨大隕石の地球衝突が人の誘導で行われた
ことに言及しています。
その対談では、このことに関する深い追及は
ありませんでした。
そのことについてこう思うんです・・・
宇宙はホログラフィックです。
巨大なものはミクロの世界と相似形を
しています。
天体もしかりだと思うのです。
いや、天体こそそうかもしれないとも
思います。
太陽の周りをまわる地球や惑星の姿は
まるで、ミクロの世界で電子核の周りを
回り続ける陽子や中性子のようだと言います。
その回転する中心核との距離関係は、
まるで相似形です。
たとえて言うなら太陽がもし中学校の広い
校庭の真ん中にあるバレーボールだと
すると、地球は校庭の塀をはるか超えた
外で規則正しく回っている野球ボールの
ようだと言います。
少なくとも、初期の頃のノーベル物理学賞の
湯川秀樹博士はこの姿を電子顕微鏡で
覗いて、その印象を「ここには神がいる」
と言ったそうです。
さて・・・
微粒子を研究する理論物理学の世界では
観察者が存在できないという法則があります。
超微粒子の電子核を高速で回転させ
二つを衝突させます。
その結果細かくなった電子核は飛び散ります。
ただ飛び散る方向が問題です。
電子顕微鏡をのぞいている観察者の意思が
どうしても飛び散る方向に影響を与える
というのです。
右に飛ぶと思えばかなりの確率で右に飛び、
左に飛ぶと予測するとこれまた左に
飛ぶそうです。
何度実験をしても同じ結果だそうです。
どんなに分厚い鉛で遮蔽しても結果は
同じと言います。
つまり完全な第3者的観察者は存在できない
という法則です。
どうしても観察者の思いが結果に影響を
与えてしまうというのです。
もうお分かりだと思いますが、レムリアの
科学がこのことに気が付いていたとします。
天体をミクロの世界に閉じ込めて想念を
送ったとすると、小天体を地球に衝突させる
ことは可能だと思うのです。
逆に自分の想念を大きく拡大して、実際の
宇宙の大きさまで広げることが出来たなら、
この小天体の誘導も可能かもしれない
と思うのです。
ここまでくると現代ではもう科学の世界とは
呼べないかもしれません。
まるでオカルトの秘儀の世界です。
しかし当時はおそらく秘儀の世界も科学の
世界も区別はありませんでした。
中世のダビンチの頃までこの世界観は
続きます。
心の世界と、いわゆる科学の世界を
分けたのはほんの最近なのです。
さて・・・
善悪の判断は時の流れでいくらでも
変わります。
時代が変われば基準が動くいわゆる
ムーヴィング・ターゲットです。
今で言うところのゴールポストが動きます。
イッピーの小説「地球(テラ)の旅立ち」
の中でマチュピチュのクリスタルスカルの
守り神ケチュアは言いました。
インカの時代自分たちは強力な武器を持つ
スペイン人に滅ぼされてしまいました。
およそ600年くらい前の事です。
そのことに関し、自分たち生き残りはこれら
スペイン人に復讐をすることは止めました。
出来なかったからではなく自らの意思で
やめたのです。
時の流れの必然だと感じたからです。
そして時の流れを受け入れることにより、
自分たちは「つなぐもの」になれたんです。
「つなぐもの」とは宇宙の時間をつなぐもの
であり、人の歴史という流れをつなぐもの
という意味です。
もし反撃や復讐をしていたら自分たちは
時のはざまに永遠に消えていたと
思うのです・・・と。
「つなぐもの」とはまたいつか姿を変えて
よみがえることが出来るという意味です。
この思いは、あるいはレムリアびとの
遺志です。
レムリアびとの「教え」だと思うのです。
近視眼的に目先の経済的利益だけを追求する
考えから生まれる思いではありません。
ここにもレムリアびとの思いの
よみがえりを見るのです。
続きはまたね
想念をここまで拡大してみると・・・