みんな元気ですか
外国で聞かれて知らないとちょっと残念な日本人の名前の事・・・
作家でエッセイストの岡田光世さんが数年前(2011年)の
文芸春秋の新年号にこんな文章を寄せていました。
少し長いですが途中引用させていただきます。
私は長年、ニュ―ヨークに住んでいた。
中略・・・
昨年夏、シカゴからニューヨークへ向かう飛行機で、
生後間もない赤ちゃんを抱いた白人女性が隣にすわった。
いつ生まれたのですか、と私から声をかけ、会話が始まった。
明日でちょうど5週間、シカゴに住む夫の両親に、
孫の顔を見せに行った帰りなんですよ、と女性が答えた。
たわいもないおしゃべりの後で、あなたは日本人ですか、
と聞かれた。そうですよと答えると、少し間をおいて
その人が言った。「ミスター・スギハラをご存知ですか」。
「リトアニアの領事館にいた杉原さんですか」
女性は私の目をまっすぐに見た。
「ミスター・スギハラは、祖父の命の恩人なんです」。
やはり「日本のシンドラー」と呼ばれる、あの
杉原千畝(ちうね)氏の事だった。
杉原氏は、第二次世界大戦時、リトアニアの
在カナウス領事館に領事代理として赴任していた。
ドイツ占領下のポーランドから逃れて来たユダヤ人は、
欧州を脱出するために、日本通過ビザを求めて領事館に押し寄せた。
杉原氏は外務省の命に背き、避難先の入国許可を得ていない者や
十分な旅費を持っていない者にも、ビザを発給し、
六千人ものユダヤ人の命を救ったと言われる。
その頃、リトアニアはソ連に制圧され、各国の在外公館は
相次いで閉鎖、杉原氏にも再三、退去命令が出ていた。
自らが身の危険にさらされながらも、最後の最後、
ベルリンへ向かう列車が走りだすまで、許可証を書き続けた。
当時、女性の祖父は、ユダヤ教の神学校に通っていた。
学生らの命を救うために「どうか三百人分のビザを」
と嘆願され、杉原氏はそれを聞きいれた。
ある学生はビザ発給作業の手伝いを買って出た。
こうして祖父は、学友らと共に、杉原氏が発給したビザを手に
無事、神戸に辿り着いた。
その後、上海へ渡り、やがてアメリカに永住する。
祖父の家族は皆、ナチス・ドイツ軍に虐殺され、
この地域のユダヤ人はほとんどが生き残れなかったと言う。
12年前にニューヨークで、亡き杉原氏の
人道的偉業を讃える式典が行われた。
祖父は杉原氏の息子の手を握り締めたまま、
離そうとしなかったという。
当時、9歳だった女性は、そのことを今でも鮮明に覚えている。
「ミスター・スギハラがいなければ、私もこの子も、
今ここにはいませんでした」
私はその3年前の事を思い出していた。
マンハッタンの南部で、コーシャーフード(kosher food=ユダヤ教の
律法に準拠した食品)を扱う店にふらりと立ち寄った。
例のごとく、カウンターにいた女性店員に話しかけた。
私が日本人と知ると、その店員はミスター・スギハラを知っているか
と聞き、日本人がいかに素晴らしいか、一息にまくしたてた。
そして商品棚へ駆け寄り、大箱のクラッカーやウエハースなどを
片っ端からビニール袋に詰め込み、私に差し出した。
「お金は払わないで」。
杉原氏の功績をたたえるパーティーが開かれた時、
この店は感謝の思いをこめて、食料品をすべて寄付したと言う。
ふと我に返ると、隣の席で赤ちゃんは母親にすべてを委ね、
まだ眠っていた。
杉原氏が書いた一枚のビザが、一つの命を救い、
祖父から息子へ、息子から孫へ、孫からひ孫へと、
その命が受け継がれている。
後略・・・
・・・
このお話しにイッピーは不思議なご縁を感じました。
上のこの文中にリトアニアから逃れたユダヤ人は「神戸に辿り着いた
のち上海へ渡りやがてアメリカに永住する」とあります。
実は神戸に辿り着く時もソ連との国境の満州で日本軍の将校に
その逃亡を助けられているのです。
満州から神戸や舞鶴には日本の船が出ました。
だから当時多くのユダヤ人がポーランドからはるばる
神戸・舞鶴に辿り着く事が出来たのです。
あまり知られていませんがその日本軍将校((樋口季一郎氏)は
イスラエルでただ一人日本人として名誉ユダヤ人の称号を
おくられています。
さて・・・
実はこれだけの日本軍人がユダヤ人救済にあたったのには
深いわけがありました。
ドイツと軍事同盟を結んでいた日本は表向きはドイツ軍の
政策には協力せざるを得ませんでした。
しかしユダヤ人だけは別です。
当時の日本には秘密裏にユダヤ人を救済する指令が出ていました。
日本軍の最高指揮権である皇室の特別な意向があったのです。
神戸・舞鶴から彼らはこの文章に出て来るように上海に渡りました。
多くのユダヤ人がまるで日本からの協力があったように
難を逃れたのにいまだに知られていない皇室とユダヤの
つながりという背景がありました。
上海には当時ナチスドイツのゲシュタポ(秘密警察)がいました。
ユダヤ人を上海の強制収容所に収容しようとしたのです。
しかし再度上海でこれを助けた日本人(ある民間人)がいました。
当時の中国から独立した自治権を持つ上海租界では
日本の影響力は絶大でした。フランスやイギリスの租界よりも
日本租界ははるかに大い影響力を持っていました。
多くのユダヤ人がその日本人の導きで上海から
難を逃れていったん香港に向かいます。
香港から彼らの多くはアメリカに移住します。
その日本人は自分の若い娘と一緒にこのユダヤ人たちを
助けようとしました。
ユダヤ人難民を乗せた最後の船団が上海を離れる時
その日本人の娘(当時15才)はゲシュタポに見つかり
殺されてしまいます。
その日本人の名前は「テンゾー」
娘の名前は「ワコ」
そのお話をイッピーは「龍が通れば」という小説にしたことがあります。
遠い昔・・・日本の歴史が始まるもっと以前、
日本にはユダヤの子孫が来ていました。
秦氏の一族もそうですが、その以前紀元前200年頃
徐福が、秦の始皇帝の意を受けて千人の子供を含む
5千人の集団で日本に移住しています。
女王卑弥呼の時代より4~500年前の事です。
秦始皇帝はモーゼを祖に持つソロモンの息子
ダビデの子孫と思われます。
日本の国家の基礎は、遠い昔におそらくこのユダヤ人の子孫に
何らかのご縁を持っています。
日ユ(日本ユダヤ)同祖論と言う主張も存在します。
はるか数千年の時を経てつながる日本とユダヤの
不思議な血脈の因縁を
どうみたらよいのでしょうか・・・
(夢の中で遠い過去に向かい事の真相を確かめるボク・・・)