さあ、強者になる意志なんか捨ててしまおう。
だが、そうであるなら、「強者」「弱者」などという区別が必要だろうか? また、最初に掲げた標語は、どんな意味を持ち得るのか?
もっと気分よく生きよう。
「生きよう」とは、とりもなおさず「生きるよう意志せよ」という勧めだ。そして、気分よく生きる者こそ強者であったはずである。では、意志すべきなのか、意志すべきではないのか?
ニーチェの哲学が唯一の正しい解釈を許さない理由は、ここにある。「意志せよ」をつかめばニーチェは「意志するな」へと逃げ、「意志するな」をつかめばニーチェは「意志せよ」へと逃げる。 ニーチェの哲学とは、この「意志せよ」と「意志するな」との間の往復運動、もしくは回転運動にほかならない。
何らかの解釈を加えるためには、「意志せよ」と「意志するな」の間のどこかで、ふと足を止めてみなくてはならない。それは、各人それぞれによる「超訳」の試みでもあるだろう。
何の役に立つのだろう? 少なくとも強くなるためとか、ましてや慰められるためとか、そんなことの役に立つようには思えない。
ただニーチェを読むとき、自分の中の何物かの更新を迫られているような気が私にはするのである。 読んだ直後には気分がよくなるというだけの自己啓発本、スピリチュアル本が世にあふれかえる中で、それは貴重な読書体験といえるのではないだろうか。
さて、ここら辺で、だいたい10分ではないか。
ニーチェの話を始めたきっかけは、『超訳 ニーチェの言葉』であったので、ちょっとこの本について一言、付け加えておきたい。
真のニーチェの探求などはせず(そんなものはない)、この本を読んで気分がよくなる人こそ強者ではないか。いや、買ってはいないのだが、Twitterの抜粋を読み、そんな印象をもった。
すでに超訳されたものを超訳する必要はないし、すでに強者である人が更新される必要もないだろう。
だが、そうであるなら、「強者」「弱者」などという区別が必要だろうか? また、最初に掲げた標語は、どんな意味を持ち得るのか?
もっと気分よく生きよう。
「生きよう」とは、とりもなおさず「生きるよう意志せよ」という勧めだ。そして、気分よく生きる者こそ強者であったはずである。では、意志すべきなのか、意志すべきではないのか?
ニーチェの哲学が唯一の正しい解釈を許さない理由は、ここにある。「意志せよ」をつかめばニーチェは「意志するな」へと逃げ、「意志するな」をつかめばニーチェは「意志せよ」へと逃げる。 ニーチェの哲学とは、この「意志せよ」と「意志するな」との間の往復運動、もしくは回転運動にほかならない。
何らかの解釈を加えるためには、「意志せよ」と「意志するな」の間のどこかで、ふと足を止めてみなくてはならない。それは、各人それぞれによる「超訳」の試みでもあるだろう。
何の役に立つのだろう? 少なくとも強くなるためとか、ましてや慰められるためとか、そんなことの役に立つようには思えない。
ただニーチェを読むとき、自分の中の何物かの更新を迫られているような気が私にはするのである。 読んだ直後には気分がよくなるというだけの自己啓発本、スピリチュアル本が世にあふれかえる中で、それは貴重な読書体験といえるのではないだろうか。
さて、ここら辺で、だいたい10分ではないか。
ニーチェの話を始めたきっかけは、『超訳 ニーチェの言葉』であったので、ちょっとこの本について一言、付け加えておきたい。
真のニーチェの探求などはせず(そんなものはない)、この本を読んで気分がよくなる人こそ強者ではないか。いや、買ってはいないのだが、Twitterの抜粋を読み、そんな印象をもった。
すでに超訳されたものを超訳する必要はないし、すでに強者である人が更新される必要もないだろう。