まずニーチェの哲学を、もう一つだけ標語にしておこう。
人と比べているようじゃ、まだまだ。
人と比べて自分の中に優位な点を見出し、それで気分よくなっているようでは、まだまだ気分のよい生き方とはいえない。だが、キリスト教徒の場合は、さらに気分がよくない。 優位な点を見出すのではなく、捏造してしまうのだから。
キリスト教の根底にあるのは、リア充への嫉妬心である。
彼らは非リアルな空間に、「リア充は罪である」とするゆがんだ道徳を作り上げる。そうした上で、次のような勝利宣言をするのである。
「奴らは旨いもんを食って、いい女を抱いている。しかし、世の終わりに勝利者となるのは奴らではなく我々である」
いま「ゆがんだ道徳」と書いたが、ニーチェに言わせるならば、ゆがんだ道徳とゆがんでいない道徳があるのではない。すべての道徳はそのように、ゆがんで作られたものだと言い切る。
ほとんどキリスト教の影響もなく、あまり禁欲的ともいえないのが現代日本である。しかし、そのような「道徳」は、現代日本に住む我々にとっても無縁ではない。
「奴ら政治家は汚い。我々正直な庶民の方が奴らより偉い」
「A子はイケメンの彼氏と付き合っている。でも、優しくて浮気をしないB君と付き合ってるあたしの方が幸せ♪」
「地球は物欲で満ちている。地球人とは違い、物欲とも無縁のシリウス星人である僕は、アセンションで次元上昇できる」
「あいつらは学生時代、ちゃらちゃら遊んでいた。しかし、難しいニーチェなどを読んでいた私は有意義な生き方ができる」
そのような考えが間違っているかどうかは、問題ではない。
気分が悪いという点が重要である。
人と比べているようじゃ、まだまだ。
人と比べて自分の中に優位な点を見出し、それで気分よくなっているようでは、まだまだ気分のよい生き方とはいえない。だが、キリスト教徒の場合は、さらに気分がよくない。 優位な点を見出すのではなく、捏造してしまうのだから。
キリスト教の根底にあるのは、リア充への嫉妬心である。
彼らは非リアルな空間に、「リア充は罪である」とするゆがんだ道徳を作り上げる。そうした上で、次のような勝利宣言をするのである。
「奴らは旨いもんを食って、いい女を抱いている。しかし、世の終わりに勝利者となるのは奴らではなく我々である」
いま「ゆがんだ道徳」と書いたが、ニーチェに言わせるならば、ゆがんだ道徳とゆがんでいない道徳があるのではない。すべての道徳はそのように、ゆがんで作られたものだと言い切る。
ほとんどキリスト教の影響もなく、あまり禁欲的ともいえないのが現代日本である。しかし、そのような「道徳」は、現代日本に住む我々にとっても無縁ではない。
「奴ら政治家は汚い。我々正直な庶民の方が奴らより偉い」
「A子はイケメンの彼氏と付き合っている。でも、優しくて浮気をしないB君と付き合ってるあたしの方が幸せ♪」
「地球は物欲で満ちている。地球人とは違い、物欲とも無縁のシリウス星人である僕は、アセンションで次元上昇できる」
「あいつらは学生時代、ちゃらちゃら遊んでいた。しかし、難しいニーチェなどを読んでいた私は有意義な生き方ができる」
そのような考えが間違っているかどうかは、問題ではない。
気分が悪いという点が重要である。