1960年の映画『日曜はダメよ』の主題歌。劇中ではメリナ・メルクーリがギリシャ語で歌っている。作曲はマノス・ハジダキスで、アカデミー歌曲賞を獲得した。

 

映画はギリシャの港町ピレウスを舞台としており、そこで商売をする娼婦と、アメリカから来た考古学者との恋の顛末を描く。

 

フランス題は「ピレウスの子供たち」となっている。仏詞はジャック・ラリュー。

 

Noyés de bleu sous le ciel grec
Un bateau, deux bateaux, trois bateaux s'en vont chantant
Griffant le ciel à coups de bec
Un oiseau, deux oiseaux, trois oiseaux font du beau temps

 

のんびりとギリシャの青空の下
船が1艘、船が2艘、船が3艘、歌を聞かせる
空では晴れ間を喜んで
小鳥が1羽、小鳥が2羽、小鳥が3羽、たわむれる

 

Dans les ruelles d'un coup sec
Un volet, deux volets, trois volets claquent au vent
En faisant une ronde avec
Un enfant, deux enfants, trois enfants dansent gaiement

 

路地では風にあおられて
鎧戸が1枚、鎧戸が2枚、鎧戸が3枚、拍子をとる
輪を作って楽し気に
子供が1人、子供が2人、子供が3人、踊ってる

 

Mon Dieu que j'aime ce port du bout du monde
Que le soleil inonde de ses reflets dorés
Mon Dieu que j'aime, sous leurs bonnets oranges
Tous les visages d'anges des enfants du Pirée

 

ああ、金色の日の光が降りそそぐ
世界の果ての、この港が好き
ああ、オレンジ色の帽子に天使の顔
ピレウスの子供たちが好き

 

 

1956年1月、ダリダにはさらなる転機が訪れる。ナイトクラブの客の勧めで、 "明日のNo.1" というオーディションを受けるのである。

 

このオーディションには、バークレー・レコード社長エディ・バークレーと、パリの放送局のプロデューサー、リュシアン・モリスがいた。

 

即座にバークレー社と契約の運びとなり、モリスがマネージャーとなった。同年の暮れ、「バンビーノ」が大ヒットしたのは既述の通りである。

カルロス・エレータ・アルマラン作曲によるボレーロの名曲である。作曲者自身(一説には彼の兄弟)が、最愛の妻を亡くした際の悲しみを歌にしたといわれている。

 

ダリダとしては7枚目のシングルで、1957年に発売された。仏詞はF・ブランシュ。

 

トリオ・ロス・パンチョスやフリオ・イグレシアス、日本ではザ・ピーナッツなど、多くの歌手にカバーされている。

 

Mon histoire, c'est l'histoire d'un amour
Ma complainte c'est la plainte de deux cœurs
Un roman comme tant d'autres qui pourrait être le vôtre
Gens d'ici ou bien d'ailleurs

 

私の物語、それはある恋の物語
嘆きの歌、それは2つの心の嘆き
ありふれた話で、あなたにも当てはまるかもしれない
ここにいる人にも、他所にいる人にも

 

C'est l'histoire d'un amour éternel et banal
Qui apporte chaque jour tout le bien tout le mal
Avec l'heure où l'on s'enlace, celle où l'on se dit adieu
Avec les soirées d'angoisse et les matins merveilleux

 

それは永遠で平凡な恋の物語
あらゆる幸福とあらゆる不幸が届く日々
愛し合う時、別れを告げる時
不安な夜もあれば、素敵な朝もある

 

Mon histoire c'est l'histoire qu'on connaît
Ceux qui s'aiment jouent la même je le sais
Mais naïve ou bien profonde
C'est la seule chanson du monde 
Qui ne finira jamais
C'est l'histoire d'un amour

 

私の物語、それは誰もが知る物語
そう、恋をすれば誰でも同じことをする
でも、それは純粋で深遠な
決して歌い終わることのない
この世でたった1つの歌
それはある恋の物語

 

 

スターへの道は甘くはない。パリに住みついたダリダは、映画のオーディションにことごとく落選し続ける。強いイタリア訛りが敬遠されたらしい。一念発起し、彼女はローラン・ベルジェのもとで、みっちり歌の指導を受けることにする。

 

このベルジェ先生は当時、相当なスパルタ教育で知られていた。

 

その甲斐もあってダリダは、一流のナイトクラブ "ヴィラ・デスデ" で歌手としての職を得て、芸名もダリラ Dalila からダリダ Dalida へ改めた。改名の理由は不明だが、一説によれば、彼女自身がタイプを打ち間違えたためだという。

1957年発売の「ゴンドリエ」は「バンビーノ」に続く大ヒットとなった。途中、イタリア語の歌詞も挿入され、いかにもカンツォーネ風だが、なんとオリジナルは「ウィズ・オール・マイ・ハート」というアメリカの曲である。作曲はピート・デ・アンジェリス、仏詞はジャン・ブルッソル。

 

Gondolier
T'en souviens-tu
Les pieds nus
Sur ta gondole
Tu chantais
La barcarolle
Tu chantais
Pour lui et moi

 

ゴンドラの船頭さん
覚えているかしら
裸足で
ゴンドラに乗って
あなたが歌ってくれた
あの舟歌を
あなたは歌ってくれた
彼と私のために

 

Lui et moi
Tu te rappelles
Lui et moi
C'était écrit
Pour la vie
La vie si belle
Gondolier
Quand tu chantais

 

彼と私のこと
覚えているかしら
彼と私は
そういう運命だった
あのとき人生は
あんなにも美しかった
ゴンドラの船頭さん
あなたが歌ってくれた時はね

 

Cet air là
Etait le nôtre
Gondolier
Si tu le voi
Dans les bras
Les bras d'une autre
Gondolier
Ne chante pas

 

あの日の歌は
私たちのもの
ゴンドラの船頭さん
もし彼を見たら
その腕の中に
他の人がいるのを見たら
ゴンドラの船頭さん
あの歌は歌わないでね

 

 

1950年代のカイロは「中東のハリウッド」とも呼ばれ、映画産業はそれなりの活況を呈していた。ダリダは『ツタンカーメンの仮面』ほか、カイロで製作された映画に、ほんの数本だけ出演している。

 

芸名は「サムソンとデリラ」にちなんで、ダリラとした(デリラ Delilah は、フランス語読みではダリラ Dalila となる)。

 

しかし、カイロの映画界で端役に甘んずるつもりは、彼女にはなかったようだ。『ツタンカーメンの仮面』の監督、マルク・ド・ガスティーヌからの誘いもあり、1954年冬に単身、花の都パリへと渡るのである。