コニカミノルタプラザにて、パラリンピック報道写真展『THE EMOTION』が終了しました。

この写真展は、一ノ谷信行さん、森正さん、
そして、この8月より活動を本格的に開始するstudioAFTERMODEのメンバーである
安藤理智さん、安田菜津紀さんの4人による作品で、
メジャーのメディアが伝えなかった北京パラリンピックの取材とその記録を、
とても印象的な写真の数々が熱く放射していました。

写真というメディアが空間をつくることで、立ち上がってくるモノがあります。
その中に身を置いてみる。
切り取られた瞬間が、選ばれ、配置され、一回性の場が生じる。
オブジェクトとしての写真が環境となり、時間を超えて自分を取り囲む。
それはアルバムやPCで見るのとは、完全に違う体験です。

「コト」をデザインするとはどういうコトなのか。
また一つ、腑に落ちる現場でした。


さて、当日、菜津紀さんの紹介で写真家の久保田弘信さんとお会いしました。
もともとはTry/Angleのメンバーとして一緒にイベントをやった、
スリランカのマヨランとのご縁だったようです。

僕は、写真というものに、いや、1人の人間の言動全てに置いて、「客観」を認めていません。
もちろん、「客観的」や「客観寄り」というのは考えられます。
しかし、「客観的」と思っている自分というのは明らかに「主観」な訳です。

丁度、自然科学と社会科学が相容れないように、いや、厳密に言えば、
社会科学が自然科学を呑み込みうる、
あるいは東洋哲学が西洋哲学を内属しているであろう、という立場と同じです。

しかし、僕が今までお会いした多くの写真家の方は、
「客観視」「自分を消す」ことがプロフェッショナルだ、と仰いました。
僕はそのスタンスには、どうしても乗れないんですね。
(もちろん、不可能を承知で挑戦されている方は別ですが)


久保田さんの写真集 『僕が見たアフガニスタン』
はタイトルから既に、主観であることを前提として提示しているのです。
これは、報道写真家としてはかなり珍しいことです。
そして、僕は、その潔さと、諦念をまとって写真に向かっているイキな姿勢に心底感動しました。

久保田さんの写真には、視線がありました。
それは、そこに自分がいるからこそ向けられた視線であり、
まさに主観というものをひっくるめた上で場を捉えていると言うことです。

ただの笑顔の写真じゃない。
葛藤の末に、それでも辿り着いた一つの境地としての、ジャーナリズムの姿がありました。
久保田さんは、911が起こるずっと前から、アフガニスタンを取材されていたのです。


カンダハルにて写された、若くして命を落としたアルカイダの兵士に祈りを捧げる人たち。

「どうしてこんな写真が撮れたと思う?

 僕の他にも撮ろうとしたヤツが居たけど、殴られてた。
 でも、僕は殴られなかった」。

冗談ぽく笑いながら、久保田さんはこうこう仰いました。

 「いい人だからだよ。コイツなら変な風には使わないだろうって認めてくれていたんだ」。

僕は、そこに、ひとつの答えを見ていました。
安田菜津紀という写真家を、ジャーナリストとして応援していきたいと思ったのも、
同じ理由からでした。

客観的な写真が欲しいなら、人工衛星に乱数でもぶち込んで撮ればいい。

我思う故に我在り。

僕らは確かにそこにいる。だから写真を撮るんじゃないのか?
そういう根本的なことを、つい忘れてしまいます。

それは、写真という存在が、「科学」と「芸術」の間に生まれた、
ハイブリッドな存在、だからこそ抱えてしまった矛盾と葛藤なのかも知れません。

この本に寄せて、緒方貞子さんは、

「多くの方がこの写真集を手にとられ、アフガニスタンの人たちの現在、
 そして未来に思いをはせていただきたいと思っています」。

と綴っています。
本当に思いを馳せるためには、物語を感じなくては、感情移入出来なくてはいけないはずです。
あくまでも自分をその場所に、時間に織り込んでいくこと。
僕も、そういう風に生きていきたいと思っています。