突然の雨。
そういうの好きですねぇ。雷雨も。
もちろん平穏無事なのが一番なのだけれど、平和の中に一閃の裂け目があると、小さなことに有り難さがあることを思い出します。
先日の雨の夜、
突然降り出した雨から買ったばかりの数冊の本を濡れないように抱えながら、そんなことを考えていました。
雨の後、ほんの少し暮らしやすくなった我が家の周りでは、
やっと蝉が鳴き始めました。
どうもアツイだけじゃ、夏って気がしない。
そんな我が家の前に青い線の入ったアゲハ蝶が飛んできました。
で、一瞬止まる。
あれ? なんて名前だっけ?
僕は遙か昔、生物学者になりたかったことがあります。
それはファーブルの影響と言うよりは牧野富太郎の影響が大きかったのだけれど、とにかく昆虫と植物に興味を持っていました。我が家が生け花教室だったのも関係があるのかもしれません。
だから、出会う昆虫の名前なんかは、全部覚えていました。
図鑑はバイブル。暇さえあれば見てました。
ところが、目の前でひらついている、あのおなじみのアゲハチョウの名前が分からない。
アオアゲハだっけ?いやちがう。アオスジアゲハ? アオスジタテハか?
しばらく考えて、諦めた。
結構ショックだった。なぜなら、このアゲハを結構好きだったから。
模様を見るたびに、細胞みたいだな、とか、線路みたいだとかハシゴみたいだ、とか色々思って、その模様の不思議、というか、進化の不思議というか、どうしてその模様になる必要があったのか、なんてことをしょっちゅう考えていたのです。
そんな思い入れの深い蝶の名前が思い出せない。
ボンヤリとしたイメージの遠く遠くの中心からちょっと外れた辺りに、
蝶の名前らしき文字列が浮かんでは消える。
こうやって、僕は忘れてしまうのだろうか。
あんなに好きだったなにもかもを。
なんだか手を伸ばしても二度と届かないような、
絶望に似た感覚が、暑さの中、白っぽい世界へ向かって拡散していました。
でも、そこで立ち止まって見送ってしまっちゃ、駄目だ。
そういうノスタルジックな感傷は、時に、拡げなくてすむ傷口を拡げたりするのだ。
夜、家に戻ると、すぐに調べました。
アオスジアゲハでした。
なんだ、やっぱりそれか。
などと都合良く思いながら、僕の中では、まったく正解を絞りあぐねていたことを知っていました。調べなければ、絶対に分からなかった。
ここ最近の僕は、常づね、名前なんてモノはどうでも良い、なんて思っていたのですが、否、自分にとっての「名前」の大きさというモノを改めて実感させられました。
「正名」というのは重要だ。
心は大事だが、やはり、それだけじゃ伝わらないことがある。
伝えるために正しい言葉を使うことは、これは人間が誰でも使える魔法なんだろう、なんて(何度目だろう?)思った次第です。