【鏡を見て、おのれの顔が険しく暗いようなら、深く恥じなさい】

普段から忍耐続きの生活ですから、いくら我慢強い祖母でも不満が膨れても仕方なかった事でしょう。

「そういう時は一気に覚悟が揺らいで来るものですよ。帰宅した今がちょうど別れ話のしどきだろうか、などと思い始めましての。まったく思いが定まらず、挙句の果てに心はどんどん曇っていくのでよ」

すっかり憂鬱になり、我知らずうつむいてしまっていた祖母の耳に、ふと母親の「鏡を見てごらんなさい」という言葉が聞こえたのです。

手鏡を手に取ると、暗く険しい顔が現れました。

「自分でもぞっとしましよ。こんな顔をしていては、夫も子供たちもさぞかし気が重くなるだろう。私だってこんな顔をぶら下げている人が目の前にいたら、嫌になると思いましたよ」

それからしばらく、祖母は明るい顔になるまで、折に触れて鏡を覗きこむようにしたのです。

「務めて明るくしていれば、己の心まで明るくなってくる。不思議な事にそのようにしていると、かえって夫の方も苦労をかけて申し訳ない、などと申してくる。全く笑う門には福来るだと思わんかえ」

家庭を営む事が、どれ程女性の強さを育むものであるか。祖母も最初から屈強な精神を持ち合わせていたのではなく、その時々、置かれた状況の中で自らを鍛えて行ったのだと分かります。

以上「女子の武士道」石川真理子著より

続いて「頂門の一針 6965号」より転載します。

【ああ日本の8月よ】 【日曜コラム】さだ まさし シンガー・ソングライター

 日本人は1年の内、8月だけしか平和について考えない、と皮肉を言われるが、テレビ番組を観(み)ていれば成(な)る程(ほど)と思う。普段は現実逃避のように温度の低い笑いで埋め尽くしている癖(くせ)に原爆忌、終戦の日になると突然、真顔で反省やらお詫(わ)びやらを口にする。これでは建前にしか見えないだろう。

 広島の8月6日午前8時15分、長崎の8月9日同11時2分という投下時刻まで覚えろとは言わないが、被爆地生まれとしては、せめて日にちくらいは知ってほしい。僕は原爆投下から6年8カ月後に長崎で生まれた。当時市内の新生児全員、「検査すれども治療せず」で悪名高いABCC(原爆傷害調査委員会)で検査された。

 結果は何でもなかったが僕の背中の痣(あざ)が原因で、母は僕を連れて3度通ったという。子供の頃、原爆の爪痕(つめあと)はまだまだ町中に残っていたし、大好きな叔母や叔父が被爆者だったので、原爆を落とした国が今は日本を守っているという理屈が全く理解出来(でき)なかった。

 子供の正義感は正直なもので、外国に自分の国を守って貰(もら)うという矛盾を呑(の)み込めなかったのだが、これは今でもだ。いや、もう子供じゃないから事情は嫌(いや)になる程(ほど)判(わか)っているので何も今更急に米軍を追い出せだの、自主独立などとは恥ずかしくて言えない。その辺の心はほぼ折れた。日本国首都の制空権の一部を米軍が握っていることは大いに遺憾であるが、正論が通らない事情も理解している。

 ああ大人になるってやだね。一般人が悩むのだから世界も相手にせにゃならん国政政治家は大変だろう。日米安保条約に於(お)ける地位協定ひとつ触るのが怖いという肩身の狭い哀れな事情は大いに同情するが情けない。しかも経済経済とお金の話ばかりするから国民の心根はずんずん卑しくなる。

 政治に求めるものは銭勘定だけではない筈(はず)。罪を犯してもお金が欲しいなどと若者の心がお金に対して曲がって育つのも、肉親が殺し合う悲惨な社会も、家庭教育も含めた教育の貧しさの証明ではないのか。尤(もっと)も親になる人をきちんと教育できなければ家庭教育もへったくれもないが。

 国の100年後を思うのであれば、最も大切なものは教育であるべきだろう。次が外交・安全保障で、経済は3番目だと思う。目先の政局ばかりに汲々(きゅうきゅう)としているから、日本が既に2等国以下に成り下がったことにも、この凋落(ちょうらく)が始まったのも取り戻せるのも全ては人々の「心」からだ、ということにも気づかないのだろう。

100年後の日本の姿を明確に示し、夢を語ってくれる人が指導者になってくれるまでこの生命はとても持たんなぁ。ああ愛(いと)しき日本の8月よ。

 さだまさし 昭和27年生まれ。音楽、小説など幅広いジャンルで活躍。

産経新聞 令和6年8月18日号掲載

☆☆☆☆☆☆  松本市 久保田 康文  産経新聞令和6年8月18日号採録