【限りなく幼稚化する日本人】
我が國の高齢化が加速度的に進んでいる。これに伴い実に不快な現象が目につく。「年寄りは子供に返る」と言うが、まるで高齢者を幼児扱いするような、言葉使いや態度が多すぎると感じる。

勿論やってゐる方に悪意はないだろう。だが、親切心と子供扱いは似て非なるものである。高齢者は相手の善意を知っているので咎める事もしない。こうして愚昧な幼児言葉が病院や介護の現場に蔓延ってしまった。

この好ましからざる現象が社会全体に広がっている。この悪しき現象を武田邦彦氏はブログで次のように書いてゐる。

「電車に乗れば到着するまで、まるで幼稚園児に伝えるような車内放送が続く。駈込み乗車をするな、不審物を見つけたらどうせよ、スマホの注意、トイレの場所など際限ない」

「講演の時も同様だ。地震の時はどうしろ、飲食はするな、スマホの電源、連れの子供を騒がせるな、などと細々したことを延々と喋る」

「公園法でも、犬を離すな、キャッチボールをするな、花火をするな、ビールを飲むな、などと細かい事を言う。これでは何のために公園があるのか分らない」

要らざるお節介が過ぎると、人間は次第に自分で考えなくなる。幼稚園の園児の如く、いい大人が誰かの指示待ちになってしまう。

福田和也が20年以上前に出した本に「なぜ日本人はかくも幼稚になったのか」がある。この書籍で福田は興味深い事を言っている。

「毎年沢山の日本人が南太平洋やアジア各地に遊びに行くが、その神経が解らない。50~60歳の方は当然サイパンで何があったか知っているでしょう。でも、そこで楽しく遊び回れるとは、何も知らないのと同じ事です」

「沖縄もそうです。なぜ沖縄がリゾートアイランドなのか。どうしてあそこで面白可笑しく遊べるのか。やはり戦争を知らないからでしょう」

自分たちの父や祖父が戦った場所であり、未だに遺骨が眠っているかも知れぬ場所で、無邪氣に遊び戯れる人々に、日本人の幼稚さを見て取ったのであろう。

幼稚な「大人子供」たちは、戦跡で遊び回るくらいだから、その下に眠る英霊のご遺骨には何の関心もない。未だに百万柱以上が手つかずとなってゐる、遺骨収集が遅々として進まぬ理由も、日本人の幼児性と無関係とは思えない。

以上「國体文化」より

続いて頂門の一針 6926号」より転載します。

【目標と内容で選べ】   藤岡信勝
<正論>
歴史教科書は目標と内容で選べ 新しい歴史教科書をつくる会副会長 

 まもなく戦後80年にもなろうというのに、日本がアジアに侵略戦争を行った残虐・非道な国であるとする「東京裁判史観」の亡霊は退治されていないどころか、学校の教科書にいまだにとりついている。その証拠に、大多数の歴史教科書は大東亜戦争がアジア諸国の独立に貢献したという事実を一切書いていない。
[「歴史への愛情」という目標]

 現在、各地の教育委員会では、来年4月から使用する中学校の教科書を決める「採択」の作業が行われている。歴史教科書は9社の教科書が選択の対象となっているが、そのうちの3社は多かれ少なかれ「東京裁判史観」からの脱却・相対化を目指していると見なせる教科書である。

 だから中学に限れば選択肢はすでに用意されているのである。しかし、それらの教科書の採択はおおむね振るわない。採択の在り方に大きな欠陥があるからである。

 そこで、問題の根本に立ち返って、そもそも歴史教育の目標は何か、それを日本の法令はどのように定めているのかを確認したい。

 周知のように平成18年に改正された教育基本法は5つの教育目標を定めたが、その中に改正の趣旨を反映したキーワードとして、「我が国と郷土を愛する」態度という言葉が書き込まれている。愛国心と郷土愛を育むことは日本の教育全体の目標なのだ。

 これに呼応し中学校学習指導要領では「我が国の歴史に対する愛情を深める」という目標が明記されている。「愛情」という主観的な言葉が教科・科目の目標として登場するのは歴史教育のみだ。歴史を学ぶとは子供たちの父母→祖父母と遡(さかのぼ)ることのできる、血のつながったご先祖たちの生活の軌跡を学ぶことなのだから、その歴史に対する「愛情を深める」ことは特別に重要な教育の目標となる。

 ところが、教科書採択に当たって右の「歴史教育の目標」は完全に無視されている。私は東京23区すべての教育委員会の「選定資料」と議事録を調べたが、「愛国心」を基準に教科書を選んでいる教委は皆無だった。
[選定資料の3つの欠陥]

 現場の教員が作成する「選定資料」(名称は区により多様)には「各章の初めにその章で学ぶ内容が概観できるように工夫されているから導入に便利」「地図が配置されているのがよい」「資料の解説が工夫されている」といったことが各社別に書かれている。この選定資料をもとに教育委員がそれぞれ教科書の感想を述べ特定の教科書が選ばれていく。

 しかし、これらの文言の多くは概(おおむ)ね教科書会社の営業マンのセールストークのリフレインなのである。このような選定資料と議論の仕方には次の3つの問題がある。

 第1に、選定資料の記述は、調査員の教員の思いつきを述べたもので、比較資料としての要件を満たしていない。「導入の工夫」はどの教科書会社もしていることだから、すべての教科書について調べ、これこれの理由で特定の教科書が優れているというのでなければ記述に何の実証性もない

 第2に、「内容」という欄があっても、書かれていることは右に例示したような文言が殆(ほとん)どで、歴史で学ぶ「内容」、すなわち、「縄文時代」「聖徳太子」「日露戦争」といった歴史の内容は調査や議論の対象とされていない。

 第3に、「我が国の歴史に対する愛情を深める」という「歴史教育の目標」が完全に無視されている。「歴史に対する愛情」だけが教育目標ではない、という反論があるかもしれない。確かに中学校学習指導要領の「歴史教育の目標」は1)知識・技能2)思考・表現3)態度─の3つの項目から成っている。しかし、1)2)は3)の「態度」の目標を達成するように統合されなければならず、3)の目標を無視することは許されない。
[「観点」を決める重要性]

 では、どうすべきか。まず必要なのは、「我が国の歴史に対する愛情を深める」という目標を重視して書かれているかどうかをテストするのに相応(ふさわ)しい「内容」をテーマとして選ぶことである。「聖徳太子」「浮世絵」「日露戦争」などのテーマは、教科書の記述の傾向を判別しやすい。

 しかし、これらのテーマに関する記述を漫然と眺めても、どこがポイントかは明確ではない。右の目標に相応しい教科書を選ぶにはそのテーマを見るための「観点」を決めなければならない。例えば「聖徳太子の自主外交を書いているか」「浮世絵がヨーロッパの絵画に影響を与えたことを書いているか」「日露戦争を戦った国民の気概・奮闘を書いているか」といった「YES/NO」(または数値)で答えることのできる疑問文による問いが「観点」である。

 教育委員の仕事はこうした観点を決めることである。教育委員は「人格が高潔で、教育、学術及び文化に関し識見を有するもの」(地教行法)なのだから、できないはずはない。「東京裁判史観」を改めなければ日本はますます没落していくであろう。教育委員の叡智(えいち)と勇気が求められている。(ふじおか のぶかつ)

☆☆☆☆☆☆  松本市 久保田 康文 産経新聞令和6年7月9日号採録