【北に被れた哀れな人々】
【日本教職員組合編『発展するチョソンと教育』(1973年)より】
・奥山えみ子【日本教職員組合婦人部長】
「『チョソンという国はキム・イルソン一家だ』と私は率直に思った。キム・イルソン主席を父として、すべての人民が一軒の家族のように、ぴったりと呼吸を合わせ、輝かしい未来に向かって。チョンリマのようにかけつづけている。」

・久保田欣一【鹿児島県高等学校教職員組合執行委員長】
「この国の人々が、明るい未来の建設に身も心も捧げ、そしてそのために真剣に世界の平和を願い、日本の民主勢力の発展に期待する心をひしひしと感じ取る。日教組の任務と責任は大きい。5年、10年と経てこの国がチョンリマの発展をとげることを確信し、滞在中に寄せられたさまざまの心づかいに深く感謝して帰途についた。」

・藤田行雄【三重県教職員組合組織部長】
「各界の指導者が30歳~40歳が中心で若さのあふれた国だけに、10年後の共和国は南半分の統一も含めてすばらしい社会主義国として発展するであろうと確信した。」

・本間直行【岩手県高等学校教職員組合常任執行委員】
「チョソンのすばらしい教育に直接ふれ、今のうちに日本の教育の行くべき道を正さねば…とも強く感じるのである。ほんとうによい学習の機会を与えていただき感謝にたえない。」

【安井郁、高橋勇治編『チュチェの国・朝鮮を訪ねて』(1974年)より】
・久野忠治【日朝友好促進議員連盟会長代理】
「これ(引用者注:チュチェ思想)は苦難の歴史を経たチョソン民族の英知を反映したものであり、ひとりチョソン人民だけでなく、われわれ日本国民にとっても非常に貴重で深奥な思想である。」

・高木健夫【評論家】
「ええ、とにかくすばらしいの一語につきます。なかでも、この国のどんな人に会っても主席閣下(引用者注:金日成)のことになると、まるで自分の親の自慢ばなしをするような、なんともいえない楽しい表情になるのです。〈中略〉まったく、つくづくとうらやましい国だと思います。」

・槇枝元文【日本教職員組合委員長】
「この国には泥棒がいない。泥棒とは富の片寄ったところに発生する。この国には泥棒の必要がないのである。泥棒も殺人犯もいないから警察官もいない。交通整理や怪我人のために社会安全員が街角や交差点に立っているだけ。」

・岡本愛彦【映画監督】
「一部だけが先行し、他の大部分は極めて後進的である日本。一部の人だけが搾取によって富み、他の大部分が貧困と生活苦と差別と公害によって追いつめられている日本――。そんな国とはどだい違うのだ。
 結局、人民全体の水準がすべての面について確実に上昇し、その先駆的役割を芸術がになっている国――。朝鮮民主主義人民共和国とはそういう国であり、冒頭にのべたように、国そのものが『芸術そのものの具現』と言える国なのだ。」

過去の投稿より

続いて「宮崎正弘の国際情勢解題」より転載します。

【近代史最大の謎のひとつ、満洲国で本当は何が起きていたのか】
チベット語、モンゴル語、満洲語の資料を読まなければ何も分からない
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宮脇淳子『満洲国から見た近現代の真実』(徳間書店)
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 満洲国は日本が建国した。五族協和を理想に愛新覚羅溥儀を皇帝として13年間存続したが、その前史を含めて日本との関わりが深く、日清・日露戦争から数えれば、半世紀拘わった。

満洲族とは何か、モンゴル族との違いは、そして満族は女真族が先祖なのか。
「梁、金、元、明の資料で『女直』、宋と朝鮮の史書では『女真』と漢字が異なりますが、同じ民族です(中略)。モンゴル人と女直人は、地形と気候の差によって、遊牧民と狩猟民という民族性の違いになりました」(41p)。

騎馬民族のモンゴル人と狩猟民族の女直人は特産品を交換し交易が密だった。そうした流れがあって、清朝はたしかに満洲族の王朝だが、順治帝は父が満州人、母はモンゴル人のハーフ。従って康煕帝は四分の一、モンゴルの血が入ったクオーターだった。五代雍正帝で血は八分の一となってモンゴル語が話せなくなった経過がある。

 じつは評者(宮崎)、四半世紀ほど前に中国全省を踏破して旅行記などを書いたが、つぎに満洲国の謎に挑もうとして準備に入っていた。基幹は満鉄であり、また日本人開拓団の拠点、日本軍の陣地、要塞など関連する場所への取材は三年ほどを費やした。それこそ遼寧省、吉林省、黒竜江省から内モンゴル自治区の奥地へ。

それもチチハルからハイラル、満州里、内モンゴルはフフホトからパオトウ、オルダスへ、黒竜江省は哈爾浜を拠点に孫呉から愛琿、黒河から露西亜国境の図門江、軍春、河北省の一部にも跨がるから承徳、阜新へも。近くは遼寧の大連、旅順、鞍山、営口。また満州国の首都は新京(長春)、殷賑を極めていた奉天(瀋陽)などには大和ホテルがあった。満州国皇居跡から徳王の館跡などなど関連箇所の殆どを廻った。

そのうえで、各地で図書館と書店をめぐり満洲国に関しての書籍を片っ端から購入し、毎回の旅行で拾数冊は買いそろえたから段ボール数箱分がたまった。かくして準備万端、資料読み作業を開始したのだが、途次に、満洲を書くことは不可能と考えるに至った。
なぜか、じつは非常に簡単な理由である。

愛新覚羅の宮廷は「偽皇居」、満洲そのものを中国共産党の治政下では「偽満洲国」と表記され、「偽軍」というのは蒋介石軍のことであり、中国で手に入る歴史書はぜんぶフェイクだったからだ。歴史観の展示も殆どがフェイクである。
ましてやチベット語、モンゴル語、満洲語の資料を読まなければ何も分からない。

 というわけで満洲国は謎だらけのまま、むしろ日本人が書いた資料のほうが信憑性が高い。

 宮脇さんの本書が有益なのは古代からの地勢、歴史を、遊牧民と狩猟民族の違い、漢族と満洲族の文化、風習の違いから歴史認識の差違と話題が多彩な上、歴史をとらえる視点がユニークだからである。

 日本と女真族は古代から拘わっていた。
ファーストコンタクトは佐渡から出羽へ流れ着いた粛慎(みしはせ)だった。阿倍比羅夫が退治した。
『日本書紀』によれば、斎明女帝が阿倍比羅夫に蝦夷退治を命じ、東北地方や北海道に大軍を派遣したとあり、遠征は658年から660年にかけて三回。200隻の船にのせ、日本海まわりだったと言うが、200隻は考えにくい。おそらく古志国(越前から加賀、能登、越中から越後にかけての王権)に支援を求めたのだろう。

さて女真族が主体の高句麗はその後、衰退し、百済・新羅時代に渤海国が建国され、さかんに日本海沿岸に漂着した。日本に朝貢したのだ。ついで「刀伊の入寇」(西暦1019年)という女真族海賊が対馬、壱岐、北九州を荒らし回った。
 モンゴルとの接触は二度に亘った元寇であるが鎌倉武士が追い払った。

あれほどの巨費を投じた理想郷の満洲国が「はたして侵略だったのか」。
 侵略したのは戦後のドサクサに東北三省をかっぱらった中国共産党ではないのか?
 戦後の歴史学会の風景と言えば、出鱈目な史観が肩で風を切っていた。その左翼全盛時代は終わろうとしている。
 偽の歴史が溢れ、くわえてGHQの歴史否定政策によって、とんでもない現代史解釈がまかり通った。

 江沢民時代に、そろそろ清朝の正史を編纂しなければならないとしてプロジェクトが着手された。が何も進展しなかった。フェイク歴史書があっても、真実の記録は喪われていた。しかし同時代の外国の文献があって真実に近い全貌が判明した。それらはすべて中国共産党が改竄してきた歴史との格差が大きすぎて話にならない。

よって不都合な真実を国民に知らせない現在の中国共産党独裁政権は清朝正史を書かないのである。真実は宮脇さんの本書にある。