【家族の呼称をなくすのか】 十倉雅和会長

<主張>経団連「夫婦別姓」  

 結婚後に夫婦が同じ姓を名乗るか、旧姓を維持するか選べる「選択的夫婦別姓」について経団連が早期実現を提言した。

 十倉雅和会長は、女性の社会進出が進む中で「国会でスピーディーに議論してほしい」と述べたが、国民の合意を欠いたまま、急ぐ問題ではない。

 経団連は従来、夫婦同姓のもとで職場での通称使用で対応できるとの立場だった。別姓推進に転じたのは「ビジネス上のリスク」などが理由だ。

 経団連が行ったアンケートなどでは職場で旧姓の通称使用が増えている一方、通称では銀行口座などがつくれないことや海外渡航、契約で戸籍上の姓と異なることでトラブルが生じていることを指摘した。

 だが夫婦が同じ姓を名乗る民法の規定を変えることは、家族や社会のありように関わる。岸田文雄首相が17日の衆院決算行政監視委員会で、選択的夫婦別姓の早期導入の提言に慎重な考えを示し、「家族の一体感や子供の利益に関わる問題であり、国民の理解が重要だ」と述べたのは、もっともだ。

 夫婦別姓を認めない民法の規定を「違憲」だとする訴えに対し、最高裁は平成27年と令和3年に合憲の判断を示し、夫婦同一の姓は社会に定着し、家族の呼称として意義があることを認めている。

 別姓制が導入されれば、こうした姓の意義が、砂粒のような個人の呼称へと大きく変わる。専門家によると姓は血縁血統を表すもので、家族の歴史や絆が断ち切られかねない。同じ姓の人を記載する戸籍の編製方法も見直す必要がある。「選択」といっても別姓を希望しない人も含め社会に関わる問題だ。

 別姓推進論は子供からの視点にも欠ける。夫婦別姓では、どちらかの親と子が別姓になる。子供の姓をどうするのか。祖父母らも絡み、いさかいや分断が起きるのは見たくない。

 最高裁の判決では、姓のあり方について国の伝統や国民感情を含め総合的な判断によって定められるべきだ、としている。深く理解すべきだ。

 住民票や運転免許証、パスポートなどで旧姓を併記できる制度も広がっている。経団連は、トラブルを嘆くより、わが国の夫婦同姓の意義を国際的に発信し、問題を解消してほしい。

☆☆☆☆☆☆☆☆  松本市 久保田 康文  産経新聞令和6年6月19日号採録

以上「頂門の一針 6904号」より


続いて「頂門の一針 6903号」より転載します。

【必要は認めがたい】
【杉原誠四郎「続・吉田茂という病」】吉田茂元首相は直ちに憲法改正の「必要は認めがたい」と言った、固執した「再軍備の拒否」「敗戦利得者」による主導権 

 そもそも、サンフランシスコ講和条約が発効して、連合国による占領が解除された1952(昭和27)年4月以降も首相を続けた吉田茂は、憲法改正についてどのようなことを言っていたのか。

 57~58年にかけて出版された回想録『回想十年』(新潮社、全4巻)において、吉田は憲法第9条について、「今日直ちにこれを改正しなければならないという必要は認めがたい」と述べている。

 そして、憲法改正については、「憲法改正のごとき重大事は、仮にそのことありとするも、一内閣や一政党の問題ではない」「国民の総意がどうしても憲法改正に乗り出すべきである、換言すれば、相当な年月をかけて、十分国民の総意を聴取し、広く検討審議を重ね、しかもあくまで民主的手続きを踏んで改正に至るべきである」と語っているのだ。

 結局、「憲法改正はしない」と言っているようだ。まるで現在の極左野党のような物言いである。

 51年1月26日、講和条約と日米安保条約の交渉のため、ジョン・ダレス対日講和条約交渉特使が来日した。ダレスはスタッフ・ミーティングで、日本側に飲ませようともくろむ不平等な日米安保条約について、「日本の主権を侵す」として、日本側は強く抵抗するであろうと述べた。

 ところが、同29日から始まった日米交渉で、吉田はまったく抵抗せず、不平等な安保条約案を受け入れた。すでにヨーロッパで締結されていた北大西洋条約機構(NATO)の例から見ても、あまりにも不平等であった。

 他方で、吉田が固執したのは「再軍備の拒否」であった。米国側が武器は提供するからと言っても、頑として再軍備は拒否した。

 こうした吉田の立場からは、50年代の後半、憲法改正について、上記のような言い方しかできなかったといえよう。

 だが、吉田の回想を抵抗なく受け入れた、当時の日本国民もものが見えていなかったといえるのではないか。日本にとって主権回復は憲法改正の最高の機会だった。吉田が主権回復後も首相を続けたために、その機会がつぶれてしまったという批判が、この時点では起こらなかったのだ。

 54年12月に成立した鳩山一郎内閣では、56年6月に憲法調査会法を公布・施行した。翌57年8月、岸信介内閣のもとで第1回会合を開くが、憲法改正を視野に入れた調査会であったにもかかわらず、64年に最終報告を出したときには、憲法改正をはっきりとは結論付けなかった。

 それどころか、「元首の問題」など、改正しない場合でも、国家の解釈を明確にしなければならないものがあるという指摘もしなかった。

 この時点では、憲法改正を強く主張する者も一部にいたが、世間は吉田を親玉とする、敗戦を経て占領軍に協力して利得を得た「敗戦利得者」によって主導権が握られていたのだ。政治や社会が、彼らによって動かされていたのだと言わざるを得ない。 =おわり

☆☆☆☆☆☆  松本市 久保田 康文 夕刊フジ令和6年6月16日号採録