【死に損なひの糞ジジイい!】

「死に損なひの糞爺い」事件が本年五月に起った。修学旅行で長崎を訪れた横浜の中学生が、案内役の森口貢「語り部」に向かい暴言を吐いたとされる事件である。朝日新聞が大々的に報道した結果、他のメディアも追随して先の中学校長が謝罪に及んだ。

抑々、いい年をした「語り部爺い」が、孫より幼い中学生に話一つも聞かせられないでどうする。「被爆者の声」は無条件で大人しく聞いてくれるを思い上がってゐるのではないか。

処がこの「語り部」は、元小学教員で日教組の活動家であり、被爆者と謂いながら実際は8月20日に爆心地を通っただけの男だ。「いはゆる反戦という点から平和教育を強くやっていた」「小泉首相最大の罪は靖国に市民権を与えたこと」と公言する確信左翼だ。

彼は「反日語り部」だった。而も彼らは一時間につき一萬円の報酬を受け取る高給取りでもある。これでは「語り部」と謂うより「騙り部」といふべきだ。

森口は「戦争や原爆を他人事と感じてゐるのだらうか」と謂うが、「戦争や原爆を眞に我が事と感じ取れる人がゐるのだろうか」と問ひ返したい。戦争を知らない人にとって戦争は所詮他人事である。

理解、同情、共感は畢竟「他者」のものである。「語り部」とは、人間の悲しい実相を凝視しつつ、それに耐え、なほそこに体験の相違を超えた人間同士の心の絆を模索する、極めて困難かつ実り少ない仕事なのだ。

被爆を売り物にする「糞爺い」たちは広島にも棲息し、此方の方がむしろ本場だ。八月に為ると普段死んだやうな彼らが生き生きと蘇る。「ワシらの季節がやってきた」と思ふらしい。招きもしないのにあちこちに出向き、我が物顔でその場を取り仕切る。

彼らは何時も同じ顔ぶれである。「被爆者」でもこんなに元氣がいい、と紹介したい位に元氣者が多い。そして一番不思議なのは、彼らを取り巻くのは常にプロ市民と職業的活動家、それに労組組合員ばかりで「普通の被爆者」は殆どゐない。

「普通の被爆者」は、日中の喧騒を避け、早朝ひっそりと墓参りに行く。近所の寺の催しに加わり縁者の為に祈り、時刻にはそれぞれ思い思いの場所で黙とうする。「平和公園」には行かない。

「糞爺い」を見たくないのだ。行くとすれば日が落ちて、近くの川のほとりに佇み、慰霊の祈りと共に燈籠を流す。彼らの祈りは政治とは全く無縁だ。

広島市は一昨年前から「被爆体験伝承者、被爆体験証言者の募集」という不思議な事業を始めた。「被爆体験証言者」とは年間14講座、述べ40時間かけて「被爆の実相」「話法技術」「被爆体験」など研修を受けた後、平和文化センター委嘱の元に修学旅行生や訪問者に「被爆体験講座」を披露する。

つまり、被爆者の話を聞いて特訓した新たな「語り部」が誕生するのだ。

広島・長崎には「被爆体験」を「伝承する」などと謂う絵空事を、本当に出来ると思ふ(ふりをする)人々が平和行政の中枢にゐて、市民の税金を盛大に浪費している。

以上「國体文化」2014年7月27日より

続いて「頂門の一針 6875号」より転載します。

【日中の近代化どこで分岐したか】 <正論> 拓殖大学顧問・渡辺利夫 

 私たちは、他者が自分をどう認識し、評価し、対応するのかに応じて自己のありようを悟らされ自我形成をつづける。自己は自己を通じて直接的に観察されるのではない。自我は他者の目の中に宿る自己を間接的に確かめながら形成されていくものである。
[岩倉使節団の欧米派遣]

 日本は江戸時代を通じて平穏に過ごし、成熟した社会と文化をつくりあげてきた。しかし、この平和の中で欧米列強に競合し得る産業力や軍事力を整えたわけではない。「海洋の共同体」としての日本は、四方を海で囲まれ、海に守られて外敵の存在を意識すること少なく、国内の統治に万全を期していけば平和はおのずと守られてきた。幕末まではそうであった。この時代、自己とは何かという自意識ははっきりとは形成されなかった。

 アヘン戦争によって大国・清国の国土が列強により蚕食されていくさまに驚かされ、ペリーの黒船来航により強烈なインパクトを受けて、日本の指導者は新しい自我形成を余儀なくされた。列強の目に映る日本は文明国ではない。だからこそ不平等条約を押し付けられたのだ。危機から日本を脱出させるには、主権国家としての内実を整備し、みずからが文明国となるより他に道はない。そういう新しい自我が形成されたのである。

 他者を正確に認識し、そこから新しい自我を生み出そうとする意志において明治維新期の指導者にはきわめて強いものがあった。そのことを端的に示すものが岩倉使節団の欧米派遣である。その全記録が随行した久米邦武による『米欧回覧実記』となって今に残る。太平洋を経て米大陸を横断し、大西洋を渡って英国に入り、欧州各国を歴訪、スエズ運河、インド洋、マラッカ海峡を抜けて日本にいたるという軌跡である。

 幕末に強圧的に結ばされた不平等条約の撤回要求も、使節団の目的であった。しかし、最初の訪問国の米国で条約改正は時期尚早であることにすぐ気づかされる。条約改正には国内統治を万全なものとするための法制度の整備が急務である。欧米列強と対等なレベルの文明国とならなければ改正は困難だと悟らされたのである。

 大陸横断鉄道、造船所、紡績工場、倉庫、石畳、水道、博物館、図書館、ガス灯、ホテル、アパート、総じて産業発展の重要性を悟らされ、さらには共和制、立憲君主制、徴兵制、議会制度、政党政治、宗教など文明のありとあらゆる側面について学んで帰国。使節団の実感を一言でいえば、文明国のもつ文明の圧倒的な力量であった。その後の殖産興業・富国強兵政策が、さらには憲法と議会制度が次々と実現されていったのには、岩倉使節団の体得した知恵があったからにちがいない。
[清は衰退から立ち直れず]

 アヘン戦争での敗北、長江流域を中心に広く各地で蜂起した宗教団体の反乱の収拾過程で、王朝末期の清国は急速に衰退していった。この衰退を押しとどめんと、曽国藩、李鴻章、劉銘伝らの官僚政治家により近代化運動が展開された。「洋務運動」である。この運動の中心的なスローガンが「中体西用」であった。中国の文化、倫理、制度の根本がつまりは「体」であり、これは変えることなくむしろ「体」を補強するために西洋の学術、技術を利用すべきだとされた。「中学を体と為(な)し西学を用と為す」である。高度の技術を
生み出した文明それ自体への関心は薄かった。

 日清戦争での敗北は、清国に特に強い衝撃を与えた。この戦争に勝利した日本の文明開化に範を取り、議会制を基礎とする立憲君主制の樹立をめざす「変法自強」が康有為、梁啓超らによって主張された。2人の主張は光緒帝を動かし、「国是之詔(みことのり)」として発せられた。しかし、西太后を中心とする保守派による「戊戌(ぼじゅつ)の政変」と呼ばれる弾圧を受けて変法自強は挫折。康有為、梁啓超は日本への亡命を余儀なくされた。

 日中近代化の分岐点はこのあたりであった。その後の清国は王朝末期の農民反乱で著しく衰弱、孫文の辛亥(しんがい)革命を経て王朝は瓦解(がかい)、新たに国民党により共和制の中華民国が成立したものの、ほどなく国共内戦に巻き込まれてこれも潰(つい)えた。内戦に勝利した共産党により1949年に中華人民共和国が成立。しかし毛沢東による苛烈な専制政治、大躍進政策の無残な失敗、狂気の文化大革命により中国が立ち直ることはなかった。