【東条英機の最後】
大東亜戦争終結後、連合軍は日本に対して極東国際軍事裁判(東京裁判)を行った。
米国主導の元に「平和に対する罪」と言う新たな戦争犯罪類型を生み出した。

これは「事後法」に当たり近代法の根幹である罪刑法定主義に反する行為である。
裁判ではA・B・C級と分類されたが、訴追理由の「種類の別」を表したもので「罪状の軽重」ではない。

東条は「日本の戦争は国際法に違反しない」と一貫して主張し、日本の戦争は「自衛戦争」であると述べた。
だが自らの「敗戦責任」については率直に認め「自分は八つ裂きにされても足りない」という思ひであった。

東条ら7人が「戦争犯罪人」として絞首刑と宣告されたのは昭和23年11月12日である。

一方で東京大空襲や原爆投下など米国の行為はすべて不問に付された。
英・仏・蘭国などは同裁判中に東南アジア諸国への「再侵略」を開始した。
ソ連による「シベリア抑留」という国際法違反も、その罪を問われる事はなかった。

刑の確定後に個人面談を許されたのは、教誨師の花山信勝(しんしょう)である。
刑の執行日は「昭和23年12月23日午前零時1分」と告知された。

これを聞いた東条は巣鴨プリズン所長のモーリス・C・ハンドワークに要望を告げる。
「戦犯とされた者たちの家族は皆生活に困窮しているので、日々の労働作業の労費を家族に渡したらどうか」
だがハンドワークはこの要望を一蹴する。

東条は花山に「今こそ死に時」と話し、その理由を列挙した。
「國民に対する謝罪」「日本の再建の礎石になり平和の捨て石となり得る」「陛下に累を及ぼさず安心して死ねる」
昭和天皇への訴追を回避できたことが、東条にとって最大の慰めであった。

東条の辞世の句である。
「散る花も落つる木の実も心なきさそふはただに嵐のみかは」
「今ははや心にかかる雲もなし心豊かに西へぞ急ぐ」
「日も月も蛍の光りさながらに行く手に弥陀の光りかがやく」

以上「昭和史の声」早坂隆著より

続いて「頂門の一針 6860号」より転載します。

【「外務省の最右派」の正論】  【阿比留瑠比の極言御免】 

 外務省内で「最右派」と呼ばれた山上信吾・前駐オーストラリア大使が遺言のつもりで書いたという新著『日本外交の劣化 再生への道』(14日発売)が一足早く手元に届いた。以前、本人から「阿比留さんは気に入ると思うよ」と言われていただけあり、実に興味深く読んだ。40年間に及ぶ山上氏の外交官人生での経験や見聞が赤裸々に、かつ実名入りで描かれ、一つ一つの言葉が刺さってくる。

 例えば平成22年9月、当時の菅(かん)直人首相が尖閣諸島(沖縄県石垣市)沖で海上保安庁の巡視船に体当たりした中国漁船の船長を超法規的に釈放させたことについては、こう記す。

 ≪国家としてこれほどの失態は滅多(めった)にあるものではない。国際社会における日本のイメージを大いに損なうものだった≫

 本書によって当時、在外公館からも強い問題意識の表明が相次ぎ、その一環として駐ドイツ大使からは悲憤慷慨(ひふんこうがい)に満ちた意見具申が公電で本省に届いていたことを初めて知った。

 この時は「外務省の捨てたものではない」と感じた山上氏だったが、本書ではむしろ外務省への幻滅や怒りが多くつづられている。

[尖閣・河野談話]

 山上氏が国際法局審議官だった26年には、尖閣諸島が日本固有の領土であることをもっと積極的に対外的に説明しようと、国際法の専門誌に寄稿し、海外広報にも使ったエピソードも紹介されている。

 この考察文は筆者も読ませてもらい、自身の原稿の参考にもした。その前年の25年9月16日付当欄は、外務省国際法局関係者の次の言葉を紹介しているが、実は山上氏のことである。

 「中国は最近、尖閣諸島のことを『神聖な領土』と言い出した。だが大東亜戦争後、尖閣諸島を在日米軍が訓練用の射爆撃場としてきたことに対しても、中国はほとんど抗議すらしてこなかった」

 ちなみに山上氏は最近、防衛省・自衛隊が削除した「大東亜戦争」という言葉を当たり前に使っている。

 また、山上氏は慰安婦問題を複雑化させた最たるものは、5年8月の「河野談話」だと断じた上で、外務省の体質も批判する。

 ≪「植民地支配」「女性」「強制連行」「売春」というキーワードをちらつかされた途端に、頭を垂れて観念してしまい、粘り強く説明、反論していこうとの動きなど殆(ほとん)ど霧散霧消してしまった≫

 7年8月に日本の植民地支配と侵略に対する「痛切な反省と心からのおわび」を表明した「村山談話」に関しても、その後遺症を指摘する。

 ≪最大の禍のひとつは、談話発出以降、歴史問題が俎上(そじょう)に上がるたびに、日本の外務官僚や外交官の間で村山談話に「逃げ込む」姿勢が顕著になったこと≫

 本来、黒白で割り切れないような問題まで「日本は謝罪し、反省しています」でその場をやり過ごそうとする癖がついたのである。

 [勝者の歴史が全てか]

 山上氏は、斎木昭隆元外務次官が31年1月の講演で「敗戦国は歴史を語る立場にない」と述べたことを引いた上で、反論する。

 ≪戦争で一度負けたからといって、また、敗戦の惨禍がどれほどひどかったとはいえ、戦勝国の言い分をすべて受け入れなくてはならないルールなど、どこにもない≫

 この一節から18年2月、栗山尚一元駐米大使が筆者のインタビューに次のように語ったのを連想した。

「歴史はほとんど戦争に勝った側が書いている。勝者が書いた歴史が歴史として受け入れられているそのことを日本人は受け入れないといけない」

 だが、そんなルールを受け入れる義務などない。外務省内に脈々とした敗北主義の伝統が受け継がれていただけだろう。

(産経新聞論説委員兼政治部編集委員)

☆☆☆☆☆  松本市 久保田 康文  産経新聞令和6年5月2日号採録