【寺山修司と川内康範】

 『月刊日本』に南丘主幹が寺山修司とジャック・ロンドンについての一文があり、懐かしく思った。川内康範との過去の交際が何故か走馬燈の影絵のように重なった。
 寺山と川内には接点も共通項もないうえ、たぶんイデオロギーは異なる。ところがなぜ二人の面影が重なったのか。考えてみてようやく得心した。

 そうだ。ふたりに共通したのは「反骨の精神」である。ナショナルな愛国心ではなく母の国への愛着である。 

 さきに寺山修司のことを書く。筆者にとって早稲田大学教育学部の先輩であり、おなじ「中退」組である。
 いまもすらすらと寺山の和歌で思い出すのは氏が十八歳で詠んだ、

 マッチ擦る束の間の海に霧深し
    身捨つるほどの祖国はありや

 寺山の孤独感、反戦歌的な逆説の諧謔。当時の日本の歌壇はこの和歌を受け付けず、新人排斥の性癖が強い既成歌人らは大いに批判した。
 筆者もなぜか反戦歌的な調べに違和感を持ったが、二歳で父が戦地で死亡、母は大車輪で働いてあちこち転勤のため寺山は幼き頃から両親の愛を知らず親戚の家をあちこちと、青森、弘前、三沢、八戸を転々とした。そんな境遇で失った父を慈しみ、価値紊乱の時代を嘆き、社会風潮を恨み、突き上げてくる感情を和歌で表現した。

 学生時代の筆者は寺山修司を詳しくは知らず、また「天井桟敷」から映画など前衛芸術の世界を驀進していた活躍を仄聞していたが、良い読者ではなかった。

 寺山修司と筆者が会ったのは三島由紀夫追悼の憂国忌の件で冊子に詩を書いて貰おうと、指定された渋谷の喫茶店だった。発起人は断られたが、詩は引き受けて呉れた、と記憶する。

 その後、浅川マキの♪「ときには母のない子のように」などを作詞した。外国で高く評価され始め、弐通ほど手紙か葉書を頂いたのだが、それも整理が悪いので行方不明となった。

 川内康範が月光仮面の作者で森進一や青江美奈のヒット曲の作詩を手がけていたことくらいは知っていた。紹介する人があって会いに行くと「君たち学生運動が君が代を歌うのは頼もしい」と時々カンパを呉れるようになり、昭和四十四年には民族派学生運動のために二曲を作詞ばかりか作曲家まで用意して披露会をやったこともあった。

氏の五十歳記念パーティにも呼んで頂き、「北海道のケネディだ」と中川一郎を紹介してくれた。手動の印刷機を寄付して貰ったこともあった。

 氏はその後、♪「この世を花にするために」の「機動隊」の歌も作られた。
 キーワークは常に「花」と「愛」、そして「真実」である。氏は大物政治家や、一方でフィクサーたちのつきあいがあり、「助っ人人生」をモットーとしていた。

 三島事件直後は筆者の提案で追悼会を行うというと自ら司会を買ってでられた。寄付金もいただいた。ところが運営を巡ってお互いに気に染まないことがあり、爾来、プッツンとなってしまった。

 再会はじつに三十年後、それも『月刊日本』の十周年記念パーティの席だった。なくなる数ヶ月前に突然電話を貰った。八戸に居を移し、入退院を繰り返していた頃だった。

 ここで八戸、三沢が重なった。
寺山も川内も青森で生活したという共通項、あの独特の方言と土地柄、純朴な人々。大昔、このあたりは縄文文明がもっとも繁栄した地域であり、縄文時代の情念でも重なる。

 そして二人に重なるのは「母」である。
「愛国心がないことを悩んでいたら」という『人生処方詩集』のなかで、寺山は「祖国は何処」という問いに「我は母の子」と答えている。寺山修司にとっての「祖国」の意味が見えてくる。

 川内の代表作は「雨に降られりゃ傘になり」と、あの「おふくろさん」ではないか。
                     (「月刊日本」三月号から再録です) 
以上「宮崎正弘の国際情勢解題」より

続いて「頂門の一針 6845号」より転載します。

【李克強死去は暗殺だったのか】  矢板明夫

中国の李克強前首相が十月二十七日、「突発の心臓病」のため死去しました。六十八歳でした。あまりにも若く、また突然の死去だったので、暗殺されたのではないかとの見方も広がっています。

結論から述べれば、暗殺かどうかは永遠に分からないはずです。中国当局は李克強死去に関する詳細な情報を伏せており、何を指摘されても「心臓病による突然死」で押し通すつもりのようです。ただ、習近平氏が殺したのだというウワサもまた永遠に残ることでしょう。李克強死去は大きな謎として、今後何十年にもわたって語り継がれることになりそうです。

半世紀余り昔の一九七一年、毛沢東の後継者とされていた林彪がモンゴルで墜落死するという出来事がありました。これは飛行機が撃墜されたのか、あるいは自殺だったのか、そもそもなぜ林彪はソ連を目指したのか、毛沢東にはめられたのではないか等々、未だに言われ続けています。李克強氏と同じく林彪も当時の中国ナンバー2でした。それだけに、毛沢東にとっては脅威でもあったのです。

林彪については毛沢東に対するクーデター未遂や、林彪の息子が反乱を起こそうとしたなど、中国政府がいろいろと発表しているものの、確たる証拠はありません。どうやら、李克強氏の死去も同じように後世まで疑問が残ることになるのでしょう。


さて、李克強追悼の動きが中国国内で広がりました。李氏は首相時代もほとんど何もさせてもらえず、目立った実績といえるようなものはありません。皆、習近平政権に対する不満と、李氏の死去に対する疑念、ひいては中国政治についての不安が一気に表面化したのです。

「半年前までナンバー2だった人物が、こんなにあっけなく死んでしまった。ましてや自分など、いつ消されてもおかしくない」と多くの人は考えている。この危ない国に生まれてしまった悲しみを、中国国民は李氏追悼の形をとって表明していたのです。

火のない所に煙は立たず
もともと李克強氏は胡錦濤前総書記の後継者で、「改革開放」をずっと唱えてきました。登小平以来の改革開放時代は、中国が急速に近代化し、人々が「明日の暮らしはもっと良くなる」と希望が持てた時代でした。しかし習近平氏が総書記になってから、「改革開放」という言葉は死語になりつつあります。胡氏までの経済重視の政権から、習氏になって政治・軍事中心の政権に転換したのです。そうした中で、改革開放路線を掲げてきた最後の政治家である李氏が亡くなってしまった。そのことを人々は悲しんだのです。

李克強氏の死去をめぐっては大きく三つの謎があります。一つめの謎は、李氏がきわめて早死にだったことです。

中国共産党の引退した元指導者たちには、それぞれ専属の医療チームが付いています。毎日とはいわないまでも毎週のように健康診断を受けている状態なのです。そして心臓病は普通、深刻な発作を起こす前に何らかの予兆があるものです。ちなみに李氏は、これまで心臓の状態が悪いという話は一切、伝わっていませんでした。

そのように健康管理がなされているため、中国共産党の元指導者で六十代で亡くなる人はほとんどいません。彼らは「世界でもっとも長寿な国家指導者たち」ともいわれており、八十代ないし九十代まで長生きするのが当たり前なのです。改革開放以降の約四十年間で六十代で亡くなった政治局常務委員(共産党のトップ七人前後)といえば、闘病生活の末に膵臓がんのため六十八歳で死去した黄菊(二〇〇七年没)くらいしか思い当たりません。

李氏は亡くなる半年前まで首相の激務をこなしており、死去の二カ月前には内陸部の甘粛省を視察し、元気な姿をみせていました。それだけに、突然の訃報に激震が走ったのです。