【総理を落とした女性工作員】
「あなたが総理にご就任する前後から、シナ人との親密な交際の記事が出ておりました。
今年に入りその女性がシナの情報部員であったという記事が出ている。
従って国家機密の管理の仕方からあなたに聞かざるを得ない」

平成9年(1997)10月30日衆議院予算委員会での西村真悟議員の質問である。
前年からマスコミを賑わせていた橋本龍太郎首相とシナ工作員・林玉蘭(仮名)との男女関係が国会で質疑されたのである。

「総理は彼女が情報部員と知っていたのか、何を話したのか、どういう責任を感じているのか、をこの場でお答え頂きたい」
憂国の士として知られる西村の口調には有無を言わせぬ迫力があった。

「シナでは通訳として列席し、出張も共に動き、会合すべてに同席をしております」
橋本は女性を「知っている」とまず認めたのである。
そして「通訳として苦労をかけましたから自分でご飯を御馳走した事もあります」と林玉蘭との接触を認めたのだ。

前年から橋本とシナ女性工作員との男女の関係が何度も週刊誌の誌面を賑わせていた。
その女性の元夫は「橋本との不倫関係で離婚に追い込まれた」と告白も掲載されていたのだ。

日本の総理とシナ女性情報部員との関係が国会で質疑されると言う前代未聞の事態であった。
一国の総理になる有力な政治家にまで、シナの女性工作員の手が及んでいる事を国民は思い知った。

「平成元年(1989)橋本総理は海部内閣の大蔵大臣として、第三次円借款再開にシナ李人民銀行総裁から協力を求められたと言われます。
翌年の李総裁との会談での協力要請で凍結解除に前向きな発言をされています」

一国の総理(当時は蔵相)がシナ女性工作員と親密になり、天安門事件後の経済制裁で苦しむシナを助ける。
ODAや無償援助を再開させたとの疑惑は最早公然の秘密とも言える段階に達していたのである。

日本の公安当局者は語る。
「この女性の両親は外交官で5歳から特殊な教育を受けたバリバリの工作員で、橋本蔵相への接触に成功し逢瀬を重ねた。
橋本がどの花屋から彼女に花を贈り、どんな宝石を贈っているか、すべて掌握していました。
彼女の親は娘の功績なのか、ある国の大使として抜擢され赴任しました」

日中関係においてハニートラップの話は常に耳に入ってくる問題である。
だが国家のトップを”落とした”事例は、他の次元とは異なり成功例として、シナで今でも語り継がれている。
橋本はこの問題に対して訴訟を起こす事も無く沈黙し、平成18年(2006)死去した。

以上「日中友好侵略史」門田隆将著より

続いて「頂門の一針 6841号」より転載します。

【天安門事件に至る激動の時代】

【ニュース裏表 峰村健司】「伝説の中国特派員」との別れ…元日経新聞記者の安藤一正氏 天安門事件に至る激動の時代、一度だけ分析を誤った習政権の誕生 

 1日午後、東京都世田谷区内の病院の一室に筆者はいた。雨が上がり、窓から差し込んできた薄い木漏れ日が点滴液に反射して室内を照らしていた。

 入院中の日本経済新聞で北京特派員を務めた安藤一正(あんどう・かずまさ)氏を見舞うためだった。肝臓を患い3月末から闘病をしていたが病状が悪化。意識不明となっていた。

 安藤氏は1984年から北京特派員として、89年の天安門事件に至るまでの激動の中国を取材した。この間、数々のスクープを放ってきた。「関係筋によると」という独自ニュースで、中国共産党が幹部向けに出した内部文書などをすっぱ抜く「伝説の中国特派員」だった。

 こうしたスクープは、安藤氏が中国共産党内に張り巡らせたネットワークからもたらされていた。私が知る限り、外国人特派員の中で最も深い人脈を持っている一人だ。

 筆者はしばしば、共通の中国の知人との酒席に同席したことがある。中国人も顔負けの野太い大声で、丁々発止の議論を吹っかけた。

 中国人にとっても難しい故事成語を駆使してやり合った。時に口論となり、殴り合いになりそうになったのを制止したこともあった。不思議なことに、どんなに激論になっても、最後は抱き合って別れを惜しんでいた。まさに体を張った真剣勝負を重ねて信頼関係を築いていたのだ。

 中国における人脈構築から情報収集のやり方まで、筆者にとっては「中国取材の師匠」といえる存在だった。北京特派員時代にスクープを書く際、東京にいる安藤氏に相談することも少なくなかった。当局による盗聴を避けるため、隠語を使ってやりとりをした。そのたびに的確な視座をもらった。

 そんな安藤氏が一度だけ、分析を誤ったことがある。

 2012年11月の第18回中国共産党大会前夜。各国特派員の注目は、胡錦濤総書記(国家主席)の動向だった。前任の江沢民氏にならって、胡氏も引退後も党中央軍事委員会主席に残留する、というのが大方の予測だった。

 しかし、胡氏がすべてのポストを後任の習近平氏に譲る、という情報を筆者は複数の党関係者から得ていた。この情報について、安藤氏はこう言った。
 「そんなことをしたら胡氏は一気に権力を失う。私の記者人生をかけてあり得ない」

だが、筆者は安藤氏の助言に耳を傾けず記事にした。結果として、胡氏は「完全引退」して特ダネとなった。

 その直後、安藤氏は筆者に電話をかけてこうこぼした。「私の中国分析は時代遅れとなった。あとは頼むぞ」

 これ以降、安藤氏による中国情報の発信は減っていった。

 病床の安藤氏の耳元で、「まだ教えてもらわなければならないことがあります」と筆者は訴えた。目を大きく見開いてうなずいたように見えた。

 その約2時間後、安藤氏は息を引き取った。享年65だった。 (ジャーナリスト、青山学院大学客員教授。キヤノングローバル戦略研究所主任研究員 峯村健司)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆  松本市 久保田 康文  夕刊フジ令和6年4月13日号採録