【全国の自治労が辺野古座り込みを支援】
成田や辺野古、国会議事堂前等での左翼集会に参加すると、組合員に「活動費」なるお金が支給されるようです。全国の自治労支部は辺野古に人を派遣してゐる。自治労東京本部はHPで「座り込み行動へ参加し、新基地建設反対の闘争に連帯」した、と報告する。

過去には殺しあった核マル派と中核派も辺野古に集結する。核マル派はHPに「怒れる労働者・人民の先頭で奮闘した」と掲載する。中核派は機関誌で「国際連帯・共同行動沖縄の結成へ」と題して、「連帯」を強調する。

こうして彼らは工事をさせない為に、行動に座り込み工事車両を妨害します。何故、こんな無法な行為が許されるのか?刑法124条は「陸路、水路又は橋を損壊し、又は閉塞して往来の妨害をした者は、2年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処する」と規定してゐる。

しかし、司法はこの往来妨害罪の保護法益を「交通の安全」と解し、人が座り込んでも「交通の安全」は害されないので、「往来を妨害する罪」には該当しないと考えてゐるのだろうか。

更に刑法第234条の威力業務妨害罪は、「威力を用いて人の業務を妨害した者も、前条の例による」とあります。前条の例とは「3年以下の懲役又は50万円以下の罰金」です。

辺野古基地建設に関わる工事を請けた業者にすれば、通り道に座り込み妨害する行為は、悪質なクレーマーの何倍も迷惑な存在でしょう。警察と検察が彼らを「威力業務妨害罪」で逮捕・起訴し、裁判所が常識的な判断をすれば、有罪に出来るはずなのです。

地方公務員は地方公務員法第16条により、「禁錮以上の刑」=「禁錮」「懲役」「死刑」になると、自動的にその職を失う。而も、失職した場合には退職金も出ません。その上に年金も大幅に減額される。

中核派や核マルなどと自治労の関係は、暴力団とフロント企業の様なものです。フロント企業は正体を隠してこそ商売が成り立ちます。公務員活動家にとって、職を失う事態は由々しき事です。

数人でもいいから現役公務員を逮捕し、懲役刑に処する事ができれば、彼らの意気は消沈し活動を控える事になると思ひます。

以上「自治労の正体」森口 朗著より

続いて「頂門の一針 6836号」より転載します。

【何とも不思議な底力をもつ日本】  櫻井よしこ   日本ルネッサンス 第1092回

親中派と言えば、政治家ではかつて首相を務めた福田康夫氏を筆頭にその系譜に連なる人々、例えばエネルギーや安全保障分野での所業から河野太郎デジタル大臣や林芳正官房長官などが思い浮かぶ。各々幾十万の有権者の支持を得て国民のため、日本国のため、国政に携わっているはずだが、一体どの国のために働いているのかと苦々しく思うことが少なくない。十倉雅和経団連会長をはじめとする財界人にも同様の思いを抱く。

そんな憂鬱な気分を吹き飛ばすのが皇學館大学文学部教授、松浦光修氏の『日本の心に目覚める五つの話』『日本の心を思い出す六つの話』(いずれも経営科学出版)だ。

氏はまず、親中派は今に始まったことではなく大昔から日本にいたことを思い出させてくれた。そうなのだ、親中派が主流の時もあった。けれど日本はきちんと大和の道を歩んで日本独自のすばらしい国柄を創ってきた。そのことを忘れて、ただ気分を滅入らせるのは愚かなことだと教えてくれる二冊の著書である。

松浦氏は2月11日の建国記念の日を題材に語っている。大東亜戦争で敗れる前、その日は神武天皇ご即位の日、つまり国のはじまりの日という意味で紀元節と呼ばれていた。制定は明治6(1873)年。明治政府が「国のはじまり」を意識した背景には、欧米列強と相対峙していくとき、キリストの誕生を基点にする西暦に対し神武天皇即位を基点にする日本国の歴史を踏まえ、対等の関係に立たなければならないという考えがあった。大日本帝国憲法の制定に当たって井上毅(こわし)らが国の根本法の精神こそ日本国の歴史や
価値観に基づいていなければならないと心していたのと同じである。

神武天皇がわが国の初代天皇であることはずっとずっと昔、人々の常識だった。『古事記』や『日本書紀』には崩御された神武天皇と皇后の御陵(お墓)の場所についての記述がある。また平安時代の法典である『延喜式』には、御陵は「大和の国・高市の郡にあり、兆域東西一町。南北二町。守戸(しゅこ)五烟(えん)」と記録されている。兆域はお墓のことで、広い御陵を5軒の家の者どもが守っていたという意味だ。

忘れ去った800年

ところが神武天皇に関する記録はこのあとぷっつりと消えたというのだ。鎌倉、南北朝、室町、戦国、安土桃山と、神武天皇は歴史の中に埋没し、御陵の場所も定かではなくなった。松浦氏は日本が神武天皇を忘れ去ったその期間は800年に及ぶと指摘する。

この時期、日本人は神武天皇の存在をほぼ完全に忘れただけでなく、中国大陸の呉の国(春秋時代、紀元前6~5世紀)の「太伯(たいはく)(泰伯)」という人物の子孫だとする「皇祖太伯説」を信じる者が多かった。右の主張は中巌円月(ちゅうがんえんげつ)という禅僧が元(1271~1368年)の時代に渡って持ち帰ったそうだ。

なぜ神武天皇がシナ人の子孫でなければならないのか、なぜそんな説を日本人が信じたのか。松浦氏は、その理由は大別して2つだと説明する。1,先進国への劣等感コンプレックス、2,外国人の日本に対する悪意ある発言を鵜呑みにする、である。

1,について松浦氏は当時の“エリート”たちは文明国のシナに憧れる余り、神武天皇がそのエリートの血を引いているとされたことをむしろ誇らしく思っていたのではないかと見る。2,について、中国大陸では古くから「太伯という偉い人物が、野蛮人の国、つまり日本国に行って王朝を開いた」という伝説があった。このとんでもない作り話が『史記』、『論語』に記録され、唐の時代には正式な歴史書、「正史」の『晋書』に取り入れられたそうだ。それを日本の知識人たちが信じ込んだのだ。

だが、江戸後期に入って遂に論争が起きた。水戸黄門様として親しまれている水戸藩主の徳川光圀公は、日本民族は日本民族の歴史を正しく見つめなければならないと考えた。日本国初代天皇の御陵は荒廃を極め、その場所さえ定かではない。光圀公はその状況を嘆き、元禄7(1694)年、立派な神社を建てて神武天皇をお祭りすべしとの建白書を奉じた。そこから後期水戸学が興り、日本回帰の精神が学問的に涵養されていった。その中心人物は藤田東湖であり、吉田松陰も大いに影響を受けた。

しかし800年間も放置されていた神武天皇の御陵の場所については中々正確につきとめられない。複数の学説が生れ、決着がつかない。最終判断は孝明天皇がなさった。今上陛下の5代前、今上陛下の祖父である昭和天皇の曾祖父にあたる方だ。孝明天皇が認めた場所に御陵が完成したのが明治維新まであと5年、文久3(1862)年だった。そして慶応3(1867)年には「王政復古の大号令」が出され、「諸事、神武創業の始めにもとづき」と謳われた。神武天皇の時からの国柄は皇室を基軸として歩むというもので、その道に戻るという国家としての決意表明がなされたのだ。

単なる復古ではない

ここからさまざまなことが汲みとれる。まず日本民族は自国の歴史を忘れ去ってしまうほど自覚のない時期を、かつてすごしたという点だ。外国の言いなりに日本の在り様をいとも容易に変えてしまうその性癖は、いま往年の中国への憧れから、形を変えて欧米諸国へ向けられているのではないか。欧米社会の在り様を日本の社会通念や歴史を置き去りにしてそのまま受け容れようとしているのが現在のわが国ではないか。

すなわちLGBT理解増進法のことだ。わが国にこんな法律は全く必要がないにも拘わらず、欧米諸国がそのことを論じるからといって、彼らでさえも行きすぎた法制化の見直しに入っており、多くの日本国民が強く反対したにも拘わらず、岸田文雄首相はさっさと法制化した。日本国の歴史や価値観についての自覚が余りに足りないからであろう。

しかし、松浦氏は指摘する。後期水戸学に始まり明治維新へと続く歴史の中で、わが国は立派に日本国の基盤を取り戻した、800年間も忘れられていた神武天皇の存在が再認識され、わが国は国の始まりを意識し本来の国柄に立ち戻った、と。800年の時を経て見事によみがえった日本は「何とも不思議な底力をもっている」と氏は書いた。

敗戦から約80年、わが国は再び日本国のはじまり、国柄、そのすばらしさを忘れ去っているのではないか。もう一度、思い出し、本来の姿に立ち戻らなければならない。原点に立ち戻ることは単なる復古ではない。新しい時代に踏み出すこと、つまり維新である。憲法改正、皇位継承の安定化、教育の正常化。その道は険しいが「何とも不思議な底力」を再び発揮する局面だ。現状に不平不満を言うだけのつまらない人間であってはならない。一人一人、やるべきことがある。そのことを心に刻みたいと思わせる二冊の著書だった。