【航空自衛隊のブルーインパルスは源田サーカスから産まれた】
知られざる自衛隊の苦闘と栄光
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小峰隆生・著。柿谷哲也・撮影 『赤い翼 空自アグレッサー』(並木書房)
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 航空自衛隊で最もよく知られているのは曲技飛行チームの「ブルーインパルス」だ。東京五輪のときも、空を見上げる人々の夥しかったこと。能登半島地震でも被災した人々を元気づけるため展示飛行を行なったばかりである。

 この「ブルーインパルス」の前身が、1960年に設立された「空中機動研究班」である。創設は第3代航空幕僚長の源田実氏だった。終戦末期、源田大佐は紫電改を主力とした第三四三海軍航空隊を率いて戦技を磨いた経験があり、空自にも必要ということで「空中機動研究班」が作られたという。

 源田さんとは評者(宮崎)、参議院議員時代に何回かあったが、ある朝、ビラ貼りの作業のママ、議員会館へ行くと、糊でよごれた靴を見て「君ぃ、これで靴を買いたまえ」と五千円のカンパをくれたことを昨日のように思い出す(当時、革靴の高級品がそれくらいの値段帯だった)。

晩年は意外に知られていない事実だが、源田氏は絶対平和論の立場だった。

 さて当時の「空中機動研究班」は、展示飛行の合間に学生教育もしなければならず、空戦を研究している時間はなかった。そこで、源田司令の下で三四三空の分隊長を務め、のち第15代空幕長となった山田良市空将が、本書で紹介する飛行教導隊(現・飛行教導群)を作ったという。

 源田氏が、現代の源田サーカスである「ブルーインパルス」を創設し、源田氏の部下だった山田空幕長がその意思を継いで「飛行教導隊」をつくったことになる。

 1981年、戦闘機パイロットの技量向上を目指して編成された飛行教導隊は、通称「アグレッサー(侵略者)」と呼ばれた。
 「アグレッサー」という呼称は、ベトナム戦争で米軍機の損耗率があまりに高かったため、敵機であるミグ戦闘機の戦い方を教える「仮想敵部隊」が作られたことに始まる。航空自衛隊を含め、主要な空軍には「アグレッサー部隊」がある。

 当初、飛行教導隊は、5機のT2練習機により活動が始まったが、その歴史には大きな犠牲があった。1986年9月、1987年5月、1989年3月に連続して発生した航空事故で、5人のパイロットが殉職。この事故から教導はいったん停止するが、1990年にF15戦闘機に機種が変更されて、ようやく教導訓練が再開した。

 飛行教導隊創設時のメンバーから、航空事故を経てF15に機種変換して復活するまでのOB隊員たちの証言、そして現空幕長の内倉浩昭空将はじめ、現役の飛行教導群司令および隊員たちのインタビューをまとめた記録である。

なかでも前述の3つの航空事故を間近で見たOBの証言は、初めて語られる。
その事故原因を簡単に説明すると、本来、練習機であるT2の設計性能以上の機動を飛行教導隊が行なったことが原因に挙げられている。つまり想像を超える厳しい訓練のうえに飛行教導群の今があるのだ。

 小峯氏は名物編集者として知られ、このシリーズはこれで5冊目。担当編集者によれば、「仲間意識の強い飛行教導隊のOBがここまで出版に協力してくれるのは稀有で、過去のシリーズがあったから実現した」という。

 日本各地で日々実戦配備につく戦闘機部隊と、各基地を巡回して最新の空戦技術を伝授する飛行教導群の存在があってはじめて日本の領空が守られている事実がよく了解出来る本である。

以上「宮崎正弘の国際情勢解題」より

続いて「頂門の一針 6825号」より転載します。

【変見自在】【歴史の作り方】      高山 正之

 賽金花は日本で言えば明治維新のころ、安徽省の貧しい家に生まれた。妓楼に売られ、13歳、半玉で34歳年上の洪鈞に身請けされ愛人になった。

洪鈞は科挙をトップ合格した清朝末期を代表する外交官だった。2年後、駐独支那公使を拝命して賽金花はその幼な妻として同行した。

彼女はそのころの支那の女、とくに妓女では当たり前の纏足をしている。

 小さいころに足の指を内側に曲げて布で縛り、人工的な小足にする。10センンチくらいが最も美しい。三寸金蓮なんて言われたが、健康な足をたわめるからこれほどの激痛はない。

 石平は『三大中国病』の中で、女の人権を蔑(ないがし)ろにしたおぞましいまでの蛮風とこき下ろす。 実際、金蓮とか囃されても女性は満足に歩けないし、歩けば激痛が走った。それでも賽金花はその代償に公使夫人になれた。

 ただそんな足で欧州社交界に出たところで踊れるわけでなし。奇異の目に曝されるだけだが、同時に男たちの関心は集めた。実際、洪鈞は彼女を伴ってウイルヘルム2世に拝謁したし、モルトケの右腕ワルデルゼー参謀次長にも親しく会っている。

 彼はことのほか興味をたぎらせ、何度か纏足女の味を楽しんだという。
洪鈞もそのつもりで不相応の女を妻にしたと言われる。いかにも支那人らしい発想だ。4年の任期の間に賽金花は独語をマスターし、皇帝ははっきり支那贔屓になって日清戦争の三国干渉を生み出す。

 洪鈞は任期を終えて帰国して間もなく病死する。洪家は格式の合わない賽金花を追い出し、彼女は再び北京の花街「八大胡同」に戻っていった。

そして山東省で外人、別けても独人を嫌う義和団の乱が起きる。20万に膨れ上がった暴徒は北京の外国人居留区を包囲し、これに西太后の正規軍も加わった。

 柴五郎ら各国の警備隊員500人はよく戦い、籠城55日間を耐えたところに8か国連合軍がやっと到着する。総司令官は独軍のワルデルゼーで、義和団を蹴散らした後、最初にやったことが「独皇帝のための3日間の略奪」だった。3日間が明けると今度は「兵士のための3日間の略奪」を許可した。

 これに米、仏、露の兵士も加わり、北京市内は殺戮と略奪で混乱。市民は日本軍が守る「北城」に逃げ込んだ。ここだけは秩序が維持されていたからだ。

この間、ワルデルゼーは昔なじみの賽金花を探して再会を果たした。彼は総司令官の特権を使って紫禁城に入り込み、西太后の寝所で賽金花とともに皇帝の夜を楽しんだ。占領地の夜を満喫する欧米人の姿がよく出ている。

 そういう思い上がりをワルデルゼーが象徴して風にも見えるが、習近平の御代になったらこの話が全く変わっていった。

まず賽金花は「公使夫人として欧州社交界に登場するとその話術や華麗なダンスステップで一躍社交界の花になった」と曾樸「ゲツ海花(ゲツカイカ)」は書く。

纏足の彼女は踊るどころか満足に歩けないはずなのに、そういう些細なことは気にしない。

 帰国後、義和団の乱が起きる。北京で独公使フョン・ケトラーが暴徒に殺されると夏衍の「賽金花」ではここに彼女を登場させる。

「激昂する公使夫人を独語で慰めた」と。さらに8か国連合軍が北京に入城すると「旧知のワルデルゼー司令官を訪ねて報復しないように頼んだ。

 同司令官も説得に応えて北京市内に秩序を回復させ、同時に連合国将兵に報復や略奪を行わないように厳に戒めた」と。

北京大教授の劉半農も「賽金花本事」で「彼女は西太后より立派」と称賛する。かくて纏足の売笑婦が北京を救ったヒロインになりあがった。

 そうまで加工しないと習氏が望む国民的ヒーローが出来上がらない。可哀想な国柄にも見える。

☆☆☆☆☆☆☆☆  松本市 久保田 康文  『週刊新潮』令和6年4月4日号採録