【「お母さん」の語源は「太陽」だった】
「今日は」も「お母さん」も太陽が語源となっている日の本の国。
■1.「こんにちさま。日の神様」
今年の元日は天気もよく、美しい初日の出を拝むことができた。山や海でご来光を拝んだ方も少なくないだろう。新年最初の日の出に両手を合わせると、なんとも清々しい気持ちになる。

実は我々の先人たちは元日に限らず、毎朝、日の出を拝んでいた。明治23(1890)年に来日したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、出雲の地での朝の光景を次のように描いている。
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「それから今度は私のところの庭に面した川岸から柏手を打つ音が聞こえて来る。一つ、二つ、三つ、四つ。四回聞こえたが、手を打つ人の姿は潅木の植え込みにさえぎられて見えない。

しかし、それと時を同じゅうして大橋川の対岸の船着き場の石段を降りて来る人たちが見える。男女入り混じったその人たちは皆、青い色をした小さな手拭を帯にはさんでいる。彼等は手と顔を洗い、口をすすぐ。これは神式のお祈りをする前に人々が決まってする清めの手続きである。それから彼等は日の昇る方向に顔をむけて柏手を四たび打ち、続いて祈る。

長く架け渡された白くて丈の高い橋から別の柏手の音がこだまのようにやって来る。また別の柏手がずっと向こうの三日月のようにそり上がった華奢な軽舟からも聞こえて来る。それはとても風変りな小舟で、乗り込んでいるのは手足をむき出しにした漁師たちで、突っ立ったまま黄金色に輝く東方にむかって何度も額ずく。

今や柏手の音はますます数を加える。パンパンと鳴るその音はまるで一続きの一斉射撃かと思われるほどに激しさを増す。と言うのは、人々は皆お日様、光の女君であられる天照大神にご挨拶申し上げているのである。「こんにちさま。日の神様、今日も御機嫌麗しくあられませ。世の中を美しくなさいますお光り千万有難う存じまする」

たとえ口には出さずとも数えきれない人々の心がそんな祈りの言葉をささげているのを私は疑わない。[a,1,p102]
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■2.「今日様」は「太陽」
ハーンの文章にある「こんにちさま。日の神さま」の「こんにちさま」とは「太陽」を意味していた。境野勝悟氏は著書『日本のこころの教育』[2]でこう説明してる。
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いまでも、太陽のことを「今日様」と呼ぶ地方はたくさんあります。高知の土佐では「こんにちさん」、新潟の刈葉では「こんにっさん」、岐阜ではこれがなまって「コンニッツァマ」と呼びます。これらはいずれも太陽の意味なのです。

夏目漱石の小説『坊っちゃん』の中にも、「そんなことをしたら今日様(太陽)へ申し訳ないがなもし」というようなセリフがありますね。[2,p122]
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この「今日様」が、現代の挨拶で使われる「今日は」の語源だという。
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昔は、どの地方でも太陽のことを「今日様」と呼んだのですから、「今日は」という挨拶は、「やあ、太陽さん」という呼びかけであったのです。[2,p222]

 以上過去の「国際派日本人養成講座」よりhttp://jog-memo.seesaa.net/

続いて「頂門の一針 6775号」より転載します。

【追い求めた憲法改正】    追悼・田久保忠衛

親ソ・非武装・反自衛隊の戦後知識人に逆らい続け…田久保忠衛氏が追い求めた憲法改正 

先月9日、外交評論家で杏林大名誉教授の田久保忠衛氏が90歳で亡くなった。日米同盟を基軸に日本外交を論じるとともに日本の独立自存を追求した田久保氏は、「米国の庇護」下にありながら憲法に軍隊不保持を定め、「国家と軍隊の基本問題に正面から向かい合うのを避けてきた」戦後日本の「一国平和主義」を批判し続けた。

憲法改正へ向け、あるべき憲法の姿を模索した産経新聞の「国民の憲法」要綱にも起草委員長として尽力した。11日は建国記念の日。わが国の将来を見据え、憲法改正を訴えた氏の功績を振り返る。

日本の国柄、消したままでいいか…「国民の憲法」起草委員長として

田久保氏が起草委員長を務めた「国民の憲法」要綱は、平成25年4月26日に発表された。4人の知識人も起草委員として加わり27回に及ぶ1年以上の議論の末にまとめられたものだが、前文や全12章117カ条を見ると、田久保氏の信念や考えが反映されている。

「国民の憲法」について議論する起草委員長の田久保忠衛氏

日本の歴史や伝統を重んじる田久保氏は「現行憲法の最大の欠陥は、日本がどのような国柄なのか香りすら消してしまったこと」「日本人が皇室を尊び、権威と権力を分けてきた叡智は世界に胸を張っていい」と考えたが、「国民の憲法」要綱でも、前文で「日本国民は建国以来、天皇を国民統合のよりどころとし…」と国柄が明記され、国家目標として「独立自存の道義国家」が掲げられた。第1条では日本を「立憲君主国」、天皇を「国の永続性の象徴」と明記。3条で、皇位は「皇統に属する男系の子孫」が継承するとされ、女系論が排除された。

田久保氏は「一国平和主義」に象徴される戦後の国防意識の薄さを批判してきたが、「国民の憲法」要綱でも、主権や独立が脅かされた場合の国の責務、軍の保持が明記された。国家の緊急事態条項も盛り込まれたが、そこにも田久保氏の「どこの国でも憲法で規定している緊急事態条項がない」という危機意識があったといえる。

死の1か月前に最後の寄稿、キッシンジャーの日本論を批判

米ソ対立の冷戦下であった昭和31年に時事通信社に入社し、外信部長などを歴任、杏林大教授となった田久保氏。当時、日本の論壇はソ連の影響を受けた知識人やジャーナリストが主流で、「平和主義」の名の下に親ソ論や非武装中立論や自衛隊批判が繰り返されていたが、こうした流れに毅然と逆らい続けた。

冷戦後には、日本の歴史・伝統を重んじる「日本会議」の会長やシンクタンク「国家基本問題研究所」副理事長に就任。田久保氏の外交論は、日本は独立国家として、たとえ米国であろうと外国におもねるべきではないという原則に基づいており、国会議員からも尊敬された。産経新聞「正論」欄の常連執筆メンバーだったが、死の約1カ月前の昨年12月7日付でも「キッシンジャー氏の死去に思う」との稿を寄せ、キッシンジャー元米国務長官の日本論を批判してみせた。これが絶筆となった。


憲法改正への情熱も最後まで衰えず、8月16日付正論欄の寄稿でも「憲法改正に、命懸けで取り組む新しい時代の志士は登場しないか」と訴えていた。

元産経新聞取締役論説委員長、中静敬一郎氏(現・岡山放送代表取締役社長)の話

田久保忠衛さんは憲法問題をよく分かっていたし、決してぶれない人物だったので、ぜひ「国民の憲法」で起草委員長を務めてほしいと思った。大変な仕事になることは明らかだったが、私が「起草委員長をお願いしたい」と電話をしたとき、二つ返事で引き受けてくれた。「国民の憲法」というからには、国民に支持されるものでなければならず、起草委員長には国民の考えをくみ取るバランス感覚も求められたが、それもお持ちだった。

国のことを考え続けた田久保さんの死は大きな損失だが、国民が憲法改正を求めるなら、その悲しみを乗り越えていかなければならない。

田久保忠衛(たくぼ・ただえ)
昭和8年生まれ。早稲田大法学部卒業後、時事通信社に入社。ワシントン支局長、外信部長、編集局次長兼解説委員などを経て退社。杏林大教授などを歴任した。日本会議会長、国家基本問題研究所副理事長。平成8年、第12回正論大賞を受賞。産経新聞創刊80周年記念事業として進められた「国民の憲法」で起草委員長を務め、起草委員会として正論大賞特別賞を受賞。令和5年12月には、個人としても特別功労賞の受賞が決まった