【ガン村の実態】
北京に駐在してゐた2007年頃、天津市北辰区の俗称「ガン村」と呼ばれる地区を訪れた時の男性の言葉だ。

「五年間で村人200人以上がガンに為りました。河は工場排水で真っ赤。四十代壮年の村人にがんが見つかるのです。私も妻も脳に腫瘍ができ、開頭手術を何度もしました」

嘗ては「米どころ」で知られたこの村は、90年代から次々と化学工場が建ち、二十一世紀になると村のガン発生率が全国平均の25倍になった。

工場との因果関係が疑われ、村人たちは惨状を環境保護当局に何度も陳情する。しかし、警察は村人たちを秩序擾乱罪で逮捕した。

日本で公害訴訟経験のある弁護士たちと現地を視察した。だが、汚染され血のように赤い水が流れてゐた河は、既に埋められていた。

地元政府が隠蔽を図り、疑惑の工場の多くは閉鎖したり移転してゐた。汚染された河は消えたが、埋め立てられた土が真っ赤だった。

このガン村を1013年シナ当局が正式に認めたと言う。だが一方でこのようなガン村が全国で247カ所も存在する事が明らかになった。

これは華中師範大学の学生が2009年に発表した論文が根拠とされる。声明時報にガン村からの惨状を伝える手紙が公開された。

「山東省高沢鎮の三本の河はいずれも汚染され、一本の河は流域の製紙工場や醸造工場の汚水で、一年中白濁し刺激臭がする。
もう一本の河の上流にはメッキ工場や蓄電池工場がある。流域の村人は皮膚に赤い発疹ができただれてゐる。
この村では毎年10人ほどガン患者が出て、7~8人が死ぬ。更に毎年70~80人の脳血栓患者が出てゐる」

また別の集落では子供の鉛中毒が相次いでゐる。この企業はもともと江蘇省にあったが、周辺で鉛中毒が起きた事から移転を余儀なくされ高沢鎮に誘致されたのだ。

たまりかねた村民が北京に陳情に行くと「強請」容疑で逮捕され、「闇監獄」に押し込まれ酷い暴行を受けた。

シナでは毎年200万人がガンを発症し、140万人が死亡する。シナのガン患者の多さと環境汚染は無関係ではないだろう。

この他にもイタイイタイ病や鉛中毒などの公害病が発生する地域も多い。河川流域でガン発生の多い「ガン河」の存在も指摘される。

環境汚染はシナにとって切実な脅威となってゐる。都市部では工場の誘致計画を阻止する例が増えてきた。

その結果汚染源工場は貧しい農村部に追いやられ、公害は弱い農民を直撃する。たまりかねて集団武装し汚染源工場を襲う事例も増えてきた。

2013年習近平は「美しい中国(美麗中国)の建設」を打ち出したが、シナの残酷な現実を知れば、これほど滑稽なスローガンはないだろう。

以上「孔子を捨てた国現代中国残酷物語」福島香織著より

続いて「宮崎正弘の国際情勢解題」より転載します。

【明治・大正・昭和史を目撃し壮大な史書をかきのこした徳富蘇峰】
その偉業をわれわれは問い直す時代を迎えた
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徳富蘇峰『宣戦の大詔』(近代科学出版)
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 徳富蘇峰と言えば戦前・戦中・戦後を通じての大ジャーナリストであり、稀有の歴史家である。主宰した『国民新聞』は時代の節目においてオピニオンを唱えたので、大きな影響力があった。
弟は作家の徳冨蘆花。戦後、GHQによってパージされた「栄誉」にも輝く。蘇峰は海外取材も多く、モスクワでは文豪トルストイに会った。
 大概の読書人なら蘇峰の著作を数冊は持っているだろう。代表作は『近世日本国民史』(全百巻)。評者(宮崎)、学生時代に十冊に凝縮された時事通信版を勉強会のテキストだと言われ、購入した記憶がある。熊本と山中湖の蘇峰記念館と伊香保の徳冨蘆花記念館を見学したこともある。

 徳富蘇峰は入手困難な文献や一次資料を駆使して歴史を説くから、その歴史解釈はともかくとして、歴史文献の第二次資料に欠かせない。信長、秀吉、家康ものと幕末物はいまも講談社学術文庫にはいってロングセラーを続けている。江戸時代の改革を丁寧に解説した巻も同文庫に入っている。

 その蘇峰が昭和十六年の昭和天皇による宣戦布告の詔勅の歴史的意義をとき、蘇峰は「必要なのは日本の魂を養うことだ」と述べていた。
 蘇峰は日本が有史以来、皇統をおもんじてきた国柄であり、「西洋流の権利義務を経緯とした個人主義によって国を建てたものでもなく、また支那の如く家族を本位として国を建てたるものでも無い」と明確な日本の国家像を提示した。

 すなわち「支那では国家は常に革命をまぬがれず、歴史の上にも二十四朝の歴史が存在しているに拘わらず、家族はむかしながらの家族である。(中略)然るに我が日本は、個人主義の国でも無ければ、家族主義の国でもない。日本では家族を大切にし、血統を重んじることは支那に比較して毫も劣れるところは無い。けれども日本には更にそれよりも大なるものがある。それは皇室である」
 蘇峰は北畠親房の思想復活を狙ったかのようである。

 歴史を考察し、蘇峰が問題だとしたのは日本が宣伝がへただという性格的な特質だった。
日本は「武士は忍ぶ恋」、「おとこは黙って◎◎ビール」のくにであり、それ故に政治宣伝なぞを軽蔑してきたからだ。
反対に武力は弱いが宣伝のうまいのが支那で、欧米列強を嘘ばかりの情報を並べ立てて政治宣伝で巻き込んだ。悪質老獪なる支那の宣伝のうまさが敗因のひとつ、というより日本が戦争に巻き込まれた大きな原因となった。

 林房雄は『大東亜戦争肯定論』のなかで徳富蘇峰を高く評価し、かれは単なる右翼思想家では無い、「現代の若い学徒たちによって、今一度詳細に研究しなおさなければならぬ重要人物である」とした

 たしかに蘇峰の思想遍歴は左右のぶれがあり、平民主義としてのデビュー当時は志賀重剛、山路愛山らと論争した。政治権力に近づくと『変節』呼ばわりされた。 

 蘇峰の偉業を偲び、記念館が全国に六つもある。熊本市に徳富記念園(徳富蘇峰旧居・大江義塾跡)、大田区立山王草堂記念館 (東京都大田区)、徳富蘇峰記念館(神奈川県二宮町)、山中湖文学の森公園内には徳富蘇峰館(となりは三島由紀夫文学館です。山中湖村)。蘇峰生誕の家記念館 旧矢嶋家(熊本県上益城郡益城町)そして、幼年時代を過ごした水俣市には市立蘇峰記念館である。

 なおこの本は1942年にでたものを復刻しただけではなく、漢字、仮名遣いを現代風に改めての新版で解説は思想史家の杉原志啓が担当している。ただしアマゾンでは1942年版の古本ルートしかない。