「頂門の一針 6461号」より転載します。
 
【実は日本軍の大勝利だった】   井上和彦

【日露戦史】「ノモンハン事件」 「空の戦い」で終始ソ連軍を圧倒 「日ソ中立条約」に引っ掛かってしまったことは痛恨の極み  

これまでも、日本とロシアは軍事衝突を繰り返してきた。中でも、戦車や戦闘機などの近代兵器が衝突したのは、1939(昭和14)年の「ノモンハン事件」が最初であった。

第1次と第2次に分かれるノモンハン事件は、32(同7)年に建国された満州国と、モンゴルとの国境線をめぐって繰り返された小規模な衝突が、後ろ盾となっていた日本とソ連の大規模な武力衝突に発展した戦争であった。日露戦争以来、四半世紀ぶりの日露軍事衝突だった。

最終的に、ソ連が主張する国境線を確保したことで、ノモンハン事件は「ソ連軍の勝利・日本軍の敗北」という評価が定着した。

この戦いで日本軍は、戦死傷者1万7364人(戦死7696人・戦傷8647人・行方不明1021人)を出したほか、戦車29両と装甲車7両を損失した。

ところが、ソ連邦崩壊につながったグラスノスチ(情報公開)によって、ソ連軍の戦死傷者は2万5655人(戦死9703人・戦傷1万5952人)を出していたことが判明した。加えて、397両もの戦車・装甲車を損失していたのだ(=実際はさらに損害は大きかったとみられている)。

だとすれば、日本軍は大勝利していたことになる。

確かに、7月にハルハ河を渡河した小林部隊は戦車を持たずに、大砲と火炎瓶で、ソ連軍戦車77両と装甲車37両を撃破するという驚くべき大戦果を挙げている。また、歩兵の戦闘においても夜襲を仕掛けてソ連軍に大損害を与えていた。

忘れてはならないことは、日本軍は「空の戦い」で終始、ソ連軍を圧倒していたことである。

緒戦の第1次ノモンハン事件では、日本軍の97式戦闘機はソ連軍を圧倒し、撃墜比率は1対10だった。第2次ノモンハン事件では、ソ連軍は劣勢を挽回していったが、それでも最終的にソ連軍は116戦闘機やSB2爆撃機など251機を失った。

いずれにせよ、日本陸軍は「北の脅威」であるロシア(ソ連)に備えて戦車や野砲などを整備し、歩兵も訓練を積んできたのだ。

従って、この2年後に始まった大東亜戦争で、大陸から南方へ転出した陸軍部隊がまったく環境の違う南方の島々で戦わざるを得なかった苦労は容易に想像がつく。

それにしても残念なことは、日本軍が大きな戦果を挙げていたにも関わらず、「優勢なソ連軍に大敗を喫していた」と思い込んでいたことだ。大損害を被って「負けた」と思い込んでしまったため、その後の北進を断念して、南進して米国や英国と衝突する道を歩んでしまった。

もし、戦闘結果について正確な情報をつかんでいたら、どうなっていただろうか。

なによりも、ノモンハン事件から1年半後に締結された、あの「日ソ中立条約」なるまやかしに引っ掛かってしまったことは痛恨の極みである。悔やんでも、悔やみきれないものがある。その意味で、ノモンハン事件は分水嶺(ぶんすいれい)ともいえる重要な戦いだったのだ。 (軍事ジャーナリスト・井上和彦)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆   松本市 久保田 康文 夕刊フジ令和5年4月1日号採録