YAYAのブログ

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音楽の話、諸行無常のお話など。

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久し振りにブログです。

神田THE SHOJIMARU、改築修繕工事のために一時閉店いたしました。

 

5月のプレオープンから、9月10日まで、目まぐるしい日々。

そこには、古くからの友も、新たなる出会いもあり。

 

SHOJIMARUを核として、音楽でつながった人の輪ができつつあるような気もします。

 

思えば、杉山さんが「ライブハウスやりたい」と言い出したのはもう、3年近く前でしょうか。

最初はだれも本気で聞いてなかったかもしれない。

でもね、わたくし、本気だと思いましたよ。本気の時はわかるんです。この人。

 

で、山あり谷あり、マイナスからのスタート。。。

 

資金の問題、場所の問題、いろんな人間との軋轢、そして仲間たちの大いなる支え。

 

神田に物件を見つけ、「ここだね。。。」といったのはまだ今年の2月の出来事ですよ。

月日は走馬灯のごとく。はるか昔のような気がするんだけど、まだ半年ちょっと。

こんな激動は、なかなか経験できないものです。

 

THE SHOJIMARUは、11月から、新たなスタートを切ります。

神田といえば「ああ、SHOJIMARUがある街だね」と言われる日が来ると信じている。

 

音楽のメッカになる,というより、むしろ、メッカを作るべきいろんな人が集まる場所となるのです。

神田名物SHOJIMARU。

 

それがささやかな裏方である私の夢。

杉山さん、たのんまっせ。

 

 

久し振りにブログを書きますが、音楽ネタじゃないのです。


最近話題の「パクリ」問題、2020年東京オリンピック・エンプレムのデザインの話でございます。


どうも、こういう揉め事になると、物事の本質が見失われることが多い。


今回何が問題なのか。


似たような業界に属するものとして、一言書き留めておきたく、お目汚しをば。




そもそも、デザインってなんでしょうか。


意匠とも言いますが、形を作ることですね。


では何のために形を作るのか。そこが問題なのです。


今回は、オリンピックを盛り上げるために「形を作る」わけです。


では、どうすれば盛り上がるのか。


それは広く一般に受け入れられることです。


ここが物事の本質です。




あえて言うと、佐野研二郎クラスのデザイナーが、自ら、人のデザインをマネしてこんな大きなコンペに出るということは、常識的にありえません。


擁護する気は毛頭ないけれど、あれは「パクリ」ではなく、結果として「似ちゃった」というのが真相だと思います。


でも、佐野氏は、記者会見で

「デザインの考え方がまるで違うのだから、まったく似ていない」と言ってしまった。


そこが物事の本質が見えないいわゆる《専門家》《プロ》さらにいうなら「アーティスト」の傲慢さです。


あれは、考え方云々以前に、素人が見てもだれが見ても、似てるんです。


似てるものを似ていないと言い放つ。




そして、それを擁護するお仲間の《専門家》もたくさん出てきましたね。


「何もわからん素人が「似てる」というんじゃない」と、言い放つ鼻持ちならない「プロ」の方々です。


こういう人種は、業界にたくさん巣食っています。虫唾が走ります。まったく傲慢で破廉恥、世間知らずでチャラチャラしたやからです。


これがプロの意見であるとすれば、日本の広告クリエイティブの世界は甚だ「チンケ」と呼ぶほかありません。


物事の本質、すなわち、「世間一般を喜ばせるために自分たちの存在意義がある」ということを完全に見誤り、ねじまがったプロ意識で専門家面しているバカどもです。


音楽の世界でも、「玄人受けすればいい」とする風潮がありますが、しかし、誰もが自分の音楽は広く多くの人に聞いてもらいたいと思っているはずです。そもそも、広く聞いてもらえなければ「音楽のプロ」にはなれません。


デザインの世界はいつから象牙の塔のごとくなってしまったのか。


大手広告代理店の罪も重いし、芸術系の教育機関の罪も大きいのでしょう。


彼らは、クリエイティビティーという人をけむに巻く「葵の御紋」を持って、人々を欺いてきた。そして、大きな報酬を得てきた。


実力がなかろうが、一般に受けなかろうが、人脈を頼りに金銭を得てきた。


しかし、


金銭を得る=プロ、ではないのです。


正しい仕事を正当に評価され、それに見合った報酬を得る、それがプロなのです。




今回の佐野氏の「パクリ」は、サントリートートバッグでは明らかなコピー、模倣があって、それはもう申し開きができないレベルですから、一般企業からの発注は激減するでしょう。


これは自業自得です。この件に関しては、まったくお話しにならないレベルです。


数々の受賞をした才能あるデザイナーであるところの佐野氏は、芸術家または、商人であったかもしれませんが本当の意味を全うした「プロ」ではなかった。傲慢であった。物事の本質を見誤った。


それが今回のエンブレム騒動の根源的問題でしょう。


組織がどうのとか、人脈がどうのとか、コネだの、出来レースだのというようなことはひとまずおいて、佐野氏も、それを擁護する業界人も、ただただ「傲慢」で、世間一般を小ばかにしすぎであるという、その一点に尽きる。


わたくしそう思う次第です。





今西太一のライブを観てきた。

言葉がない。

打ちのめされた。

もはや、音楽的にどうのこうのいうこともはばかられる。

あの「人」としての力はどこから湧いてくるのか。

「年季」という言葉で片付けるのは簡単だが、年を重ねればできるという芸当ではない。

まったく、ものすごい男が世の中にはまだいるんだな。。。と、改めて感じた夜であった。


今西太一の唄う言葉は、一言一句、余すことなく、心につき刺さる。歌詞を聞き漏らすことなどない。

歌詞の持つ力は、太一のそのずば抜けた歌唱に乗って聞き手の胸をえぐる。時に優しく、時に切なく、時には可笑しく、心をつかむ。いや、つかむというよりは、握りしめてくる。どこまでもピュアでいて猥雑でいて抒情に満ちた詩の世界。心は、月を、花を、春を、大坂を・・・、そんな太一の紡ぐ世界を真正面から受け止める。


絶大な説得力。こんなシンガーが、年間200本ものライブをこなしているのだという。一度聴いたら、その独特の世界観にとことん魅せられるだろう。太一の世界に引きずり込まれるだろう。それほどまでに太一の唄は「強い」。


絶妙な関西弁のトークをはさみ、ある時はあえてマイクオフで歌う。その一挙一動、すべてが完ぺきなまでのパフォーマンス。やがて、会場全体を完全に支配していくパワー。これが「人間力」。


音楽というものは、「人間力」なのだ、と気づかされるステージ。


アメリカの若者たちがその昔、初めてボブ・ディランを観たとき、こんな感覚だったのかもしれない。なんとなくそう思った。


人間というものが好きな人、音楽というものが好きな人、あるいは、人間なんて、、、と思っている人、そういう人は、今西太一をその目で見るがよい。


人間の力を胸の奥にどーんと、ぶち込んでくれるはず。


素晴らしき男。今西太一。日本の音楽シーンは上っ面だけで語ってはいけない。こんな男がいるのだから。