ツアーでの幸せな一日。左からウェットン、クロス、ブルフォード、フリップ、1974年、ヨーロッパのどこかのホテルのロビーで移動を待つ。


2010年9月16日

By Bill Bruford


ほとんど即座に、ロバート・フリップと私は、私たちの仕事上の関係のほとんどを守るような立場を取った。

私は生真面目で、アイディアがありすぎ、熱意がありすぎ、厚かましい男だった。

私を倒すには象撃ち銃で何発も撃たなければならなかったが、それでも風が吹いただけだった。

おそらくロバートは、バンド内にそのような芸術的回復力があることに慣れていなかったのだろう。


彼は銀の舌を持つ優れた知性であり、難解な、あるいはおそらくオカルト的な知識を持っていた。

計画のある男。しかし、彼はその計画をはっきりとは明かさなかったので、ある種のインスピレーションによる推測が求められた。

彼が35年の間に私にくれた2つの贈り物のうち、最初の贈り物が『ヘルメスへの入門』と題された本だったとき、面白い旅になることは分かっていたかもしれない。


バンドに入ったとき、セットリストは渡されなかった。

ウスペンスキー、J.G.ベネット、グルジェフ、カスタネダはどれもホットだった。

ウィッカ、人格の変化、低魔術のテクニック、火占術......これらはすべて、クリムゾン・キングの宮廷魔術師によるものだった。

これは3つのコードと1パイントのギネス・ビール以上のものになりそうだった。


バンドに加入したときはまだ準備ができていなかったというロバートの分析には同意するが、年上で賢明なパーカッショニスト、ジェイミー・ミューアと1年過ごした後、私は準備ができた。

もし加入していなかったら、その後に芽生えた可能性を開花させることはできなかっただろうし、その点ではキング・クリムゾンに感謝している。


ロバートはいつも、バンドは「物事のやり方」であり、自分は「バンドをまとめる接着剤」以上の存在ではないと主張していた。

しかし、唯一残されたオリジナル・メンバーとして、また彼なしではグループは存在し得ない唯一の男として、彼は事実上のリーダーだった。

グループの休止も再開も彼が決めた。

グループの各エディションに採用されたのは彼の青写真だった。

1980年にスタイルを一新するために、よく知られ愛されてきたレパートリーをすべて捨てることを決めたのも彼だった。


出典:

https://billbruford.com/september-20th-1974-king-crimson-ceased-exist/