◾️「音楽の溝を埋める」



By Pamela Metzler

1972年3月10日

Asbury Park Evening Press


ロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージックでクラシック音楽を学ぶのと、ランカシャーの田舎の農地を耕しながら歌を口ずさむのとでは、大きな隔たりがある。

しかし、イギリスのロック・グループ、イエスのキーボード奏者兼アレンジャーであるリック・ウェイクマンと、リード・シンガー兼作詞家のジョン・アンダーソンは、その隔たりを埋めることに成功した。多様な才能を駆使して、彼らは独自の音楽スタイルを作り上げたのだ。

シンフォニック、クラシック、オーケストラ・ロックと呼ばれるそのスタイルは、リックの作曲に対する造形的なアプローチと、ジョンのシンプルで詩的な人生観の産物であるようだ。


リックは父親に勧められ、6歳からピアノを習い始めた。

「音楽的に始めるきっかけをくれたのは父だったと思う」とリックは言う。「父も昔は素晴らしいピアニストだったんだ」

私立の教師に師事し、8段階の必要条件を満たした後、パブリックスクールを経て大学に進学した。ロイヤル・カレッジで、小柄で長髪の音楽家はピアノ、オルガン、クラリネットの学位を取得した。今では公認教師となり、週給35ドルの資格を得た。


「カレッジでは多くのことを学んだが、作曲家のスタイルから外れるたびに、教授たちはにやにやしていた」とリックは振り返る。

「彼らはすべての演奏方法について一定の決まりを持っていたが、私は独創的である必要があった」と彼は続ける。

「彼らは私を束縛しすぎた。ついにフラストレーションがたまり、退学した」と彼は締めくくった。


リックはその後、ジャズ・バンド、ダンス・バンド、ロック・バンドを渡り歩き、最終的にハード・ロック・グループのストローブスに加入した。

「当時、僕は借金まみれで、結婚するつもりだったんだ。ストローブスが、安定した給料の上に新婚旅行の費用を出してくれると言ったとき、我慢できなかった」と彼は付け加える。


それから10年後の昨年7月、リック・ウェイクマンは午前3時の電話でイエスに「イエス」と答えた。

「グループには創造性が欠けていたし、自分はどこへも行けないと思っていた」とリックは言う。

「グループを変えるという考えは好きじゃなかった。ミュージシャンの人生では、大きな変化は1回で済むものだが、それが正しい変化でないこともある」と彼は結論づける。


リックとイエスにとって、それは正しい選択だった。

リックはクラシカルな音楽へのアプローチをグループにもたらした。彼の長年の訓練と経験は、イエスがレコード・チャートのトップに立つために必要な触媒のようだ。


「私はオーケストラ風に楽譜を書くんだ」とリックは説明する。

「すべてのものに流れがなければならない。『燃える朝焼け』はそうやって書いたんだ。でもうまくいった」


リックは、自分には奇妙な音楽の趣味があると言う。

ジョー・コッカーやキャット・スティーヴンスを敬愛し、フランク・ザッパには「どうしても入れない」と言う。

しかし、偉大なクラシックの作曲家たちには常に敬意を抱いている。

「現代の優れた音楽家たちも、モーツァルトの天才性からは逃れられない。彼がやったことを参考にすることはできても、それに付け加えることはできない」


彼の音楽に対する真剣な情熱は、芸術全般に対する同じく強烈な哲学によって増強されている。

「芸術はその時々の政治を反映するものだ」と彼は説明し、「人々の感情に訴えることで、芸術を通して物事を変えようとすることができる」と続ける。

「結局のところ、芸術が最初に生まれた。原始的な民族は、自分自身を表現するために石壁に絵を描いた。芸術は今日でも同じことをしていると思う」と彼は締めくくった。

彼の性格の深さは、観客を満足させ、観客とコミュニケーションを取る必要性において、さらに明白になっている。

聴衆を満足させられなかったと思いながら演奏を終えたことがあるかと尋ねると、彼は「ほとんど毎晩」と答えた。


リック・ウェイクマンには軽い一面もある。日曜学校の教師だった頃のことを懐かしそうに語る。

「でも、牧師の娘に好意を抱き始めたとき、宗教教師の道はあきらめたほうがいいと思ったんだ!」


ジョン・アンダーソンは、「音楽というものは、とんでもなくエモーショナルなものなんだ」と率直に語る。

そして、この言葉は彼の音楽に対する気持ちを表しているだけでなく、彼自身をも表しているような気がしてならない。

労働者階級の家庭に生まれたジョンは、10歳で畑を耕した。15歳で学校を辞めた。


「正式な音楽教育を受けたことはない」とジョンは言う。

「兄と外で働いているときにハーモニーを奏でようとしたことはあったけど、そのときでさえ音楽は趣味のひとつだった」


その後、ジョンの兄は「エルビス・プレスリー」タイプとしてイギリスのステージに立ち、女の子たちを魅了した。

「そのとき、僕はこれだ、と思ったんだ」とジョンは振り返る。

「唯一の問題は、兄が本当にヘビー(今の言葉でハンサムという意味)なブランド・タイプのブッキング・ガイだったことで、僕は自分がそれに匹敵するかどうか確信が持てなかった」と彼は付け加える。


彼が最初に入ったグループはウォーリアーズと呼ばれていた。

しかし、彼らと数年過ごした後、彼は幻滅し、ドイツにいる間に彼らのもとを去った。

「何カ月もの間、自分が何をしたいのか、自分が誰なのかさえわからずにドイツ中をさまよった」と彼は振り返る。

「まるで虚無の中にいるようだった」と彼は付け加える。

「でもある日、ついに自分を取り戻したんだ。まるで生まれ変わったみたいに、とてもいい気分だった」とジョンは語る。


彼はロンドン行きの飛行機に乗った。

「そして、ウォータールー駅の真ん中に立って、自分のホルンで『ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン』を演奏したんだ」(注.ジョンはドイツから列車で帰国したと語っている)


1968年、彼はイエスの結成を手伝った。

その後は、イギリス版ホレイショ・アルジャーの物語と言えるかもしれない。


ジョンは、人生や感情について書くのが好きで、どんな文学者からも影響を受けていないと言う。

「僕はただ感じたことを書くんだ。言葉には独自のリズムと美しさがあり、それをどうアレンジするかを知っていればいい」と、淡々とした作詞家は説明する。

「僕はまた、意味があるように聞こえる言葉を使うのが好きだ」と彼は続ける。

「例えば『sharp』って言うと、何か鋭いもののように聞こえる」


故郷の農家の少年ジョンは、ある種の匿名性と大きな自由を楽しんでいる。

「ビートルズのような空港での暴徒シーンの日が終わってよかった」と彼はつぶやく。

「彼らは血まみれの欲求不満だったに違いない。どこに行っても認められるのに、どうやって人生やアウトドアを体験できたんだろう?」


おそらく、彼の生命力あふれるシンプルさと人生に対する鋭い意識の延長線上に、彼の芸術に対するモティベーションがあるのだろう。

「人々に自分の感覚に気づいてもらうのが好きなんだ。評価なんてどうでもいい。いつの日か、観客が拍手することなく、ただ思考の黄昏点に達するような、そんな魅惑的な観客を残したい」と彼は締めくくる。

なんとなく、彼はそれを成し遂げそうな気がする。


-パメラ・メッツラー