■サバイバル - 音楽を作るのは簡単だ。難しいのはビジネスだ。
『Survivals & Other Stories』(2011)より抜粋訳
リトル・ジョン・スキッフル・バンドは、僕の最初の音楽グループだった。
僕はまだ若く、ウォッシュボードを弾きたかったが、ギターは問題外だった。 父は僕にバイオリンを弾かせたがった。
僕は9歳で、身長は4フィートもなく、兄のトニーと、アクリントンから2マイル離れたクレイトン・ル・ムーアの裏通りのガレージで、ノイズメーカーたちと一緒にいた。
まあ、素晴らしかったよ。でも、僕のシンブルも、たぶんイラつくような音を立てていたんだと思う。指から落ち続けて、何回か擦り傷を負った。
僕はあるアイデアを思いついた。ハンマーを見つけ、指の周りのシンブルを強く叩くことにした。叩きすぎて指が割れそうになった。血を見たのを覚えている。でも僕はプレイし続け、それが僕のロックンロール、いや「スキッフル」の世界への入門だった。
僕の仕事は牧場で牛を追いかけ回し、乳を搾り、牛乳を瓶詰めすることだった。そしてアクシー周辺の家々に牛乳を配達した。
それでも僕は、他の子供たちと同じように夢を持っていた。アクリントン・スタンレーでサッカーがしたかったんだ。しかし、13歳のときに身長が4フィート11インチしかなかったことは、まったく役に立たなかった。
1957年の夏、トニーは小さなレコードプレーヤーとエルヴィス・プレスリーのLPレコードを買った。僕たちは日が昇ってから沈むまでそのレコードをかけ続け、歌詞を全部覚えて一緒に歌ったに違いない。
トニーはエルヴィスの真似をした。それからジェームス・ディーンだ。
それからの数年間、トニーと僕はどんな天候でも、牛乳などを配達に出かけた。
エバリー兄弟の歌やエルヴィスの歌、ロマンチックな歌を歌ったものだ。 僕たちは、自分たちのことをかなり上手いと思っていた。
トニーは「ウォーリアーズ」と呼ばれるバンドに加入していた。1963年の初め、ビートルズが労働者のために世界を切り開こうとしていた頃だった。
僕はとても若く見えた18歳で、いつも笑っていて、どこへでも駆けつけていた。
ある日突然トニーに、ウォリアーズに入らないかと誘われた。「それともまだアクリントン・スタンレーでサッカーをしたいのか?」
チームのトレーナーから体が大きくないと言われたし、チームのブーツを掃除するのにもうんざりしていた。そこで僕は、「エバリーの歌を歌ったり、バディ・ホリーの曲を歌ったりすればいいのじゃないか」と言った。
僕は自分の音域の頂点で「ゴールドフィンガー」を歌っていた。ある記者はこう言った。「ロック界のシャーリー・バッシーだ」彼を殺したかったよ。
初めてのショーは僕にとって素晴らしいものだった。トニーとボーイズと一緒に何曲か覚えたんだ。そして「Somethin else」を歌うことにした。拍手が鳴り響き、何人かの友人たちが応援に来てくれて、僕は「スタンリー」のためにゴールを決めたような気がした。
そこで僕はステージに釘付けになった。初めて本格的なロックンロール・バンド、いやポップ・バンドに参加した。
リハーサルをして新曲を作り、ビートルズのようなサウンドを出したこともあった。ビートルズの髪型にしたり、キューバのヒールのあるブーツを履くのが夢だった。そして奇妙な「レバプードル」訛りの、とてもひどい話し方をした。ビートルズは僕らの「神」だった。
僕はバンの運転手であり、アンプを持ち上げる係であり、ドラムをセッティングする係であり、みんなの犬だった。
この時期、僕は強くなり、同時に苛立つようになったと思う。これが僕の望む人生なのか?
バンドをやるのが大好きだったんだ。
僕たちは「ツイスト・アンズ・シャウト」を歌い、古いボロボロのバンを使っていた。僕たちはまるで使命を帯びているかのように、あらゆる「ギグ」に向かって突進し、途中で曲を覚え、とんでもないスピードで移動したものだ。
多くの場合、僕は運転手だった。ある時、ブラックバーンに行く途中だった。バンのフロント右側で、小さなカチッという音が聞こえ続けたんだ。それで長い坂を下る前に、坂の頂上で止まって音を確認することにした。そうしたら、右前輪がそのまま坂を転がり落ちた。車軸から外れてしまったのだ。スピードを出して坂を下っていなかったのが奇跡だった。
ウォリアーズはしばらくして少し大きなギグをやるようになった。63年後半だった。
かなりいいショーができたし、ファンもいた。リバプールの「キャバーン」で演奏したこともあった。
ある日のオーディションで、もっとオーディションを受けるように言われたんだ。自分たちが「安い労働力」だと気づく前に、4、5回はオーディションを受けたと思う。僕たちは、「コミック」「ストリッパー」「ビンゴ」の合間に10分以上のセットをこなした。
大都市のマンチェスターで演奏したという名声を得ることと、もちろんストリッパーを見るためにやったんだと思う。若さは無駄になる。それでも僕たちはいい演奏をした。
僕たちのバンは牛の角のセットを搭載していた。その牛の角は、荷物ラックの前部に危険に乗っかっていた。鮮やかなオレンジ色のバンの上には、側面に「ウォーリアーズ」と書かれたスローガンと「HAVE MUSIC WILL TRAVEL」の文字があった。僕たちは若かった。
ポケットに大きな「W」のマークが入ったお揃いのブルーのジャケットを手に入れた。若くて愚かだった。
数ヵ月後、僕たちは即座にスターダムにのし上がるビッグチャンスに恵まれた。
マンチェスター出身の本物のジャック・ザ・ラッドがアクリントンのライヴにやってきて、「レコードを作って一夜にして有名にならないか」と誘ってきたのだ。その夜、トニーは確かにボスの真似をした。
「来週の木曜日にマンチェスターまで行って、ショーをやらないか」と誘われたが、兄のトニーは言った。「悪いが、その夜は先約があるんだ」
「キャンセルしろ」と言われたが、トニーは断った。
彼は翌日ブラックバーンに行き、ライオナル・モートン・フォーと契約した。ライバルバンドのひとつだ。3ヵ月後、彼らはヒットを飛ばし、No.1になった。「4ペニーズ」として有名になった。兄が人生の笑い方を学んだのはその頃だったと思う。
僕たちは皆、本当に笑った。
僕は「ポール」、トニーは「ジョン」、ベースはデイビッドだった。 ドラムのダグ、ギターのマイクはまとめて「ジョージ」と「リンゴ」だった。そしてリズム・ギターのロドニーはいつもニコニコしていた。
僕らはリバプールのキャバーン・クラブで演奏しなければならなかった。 あそこで箱バンもしたし、成功の話もしたし、セキュリティも手に入れた。当時の僕がそれを言うのはちょっと早計なんだけど、とにかく、僕たちは自分たちの小さな世界で有名になりつつあったんだ。
でも、ホームタウンでは有名になれなかった。母さんは、『そろそろちゃんとした仕事を考えないと』と言った。
僕たちは63年末までにプロになることを決めていた。 つまり、僕たちは仕事をあきらめ、生活保護を受けることになった。大ブレイクするまで生き延びるためにね。1年経っても、まだ大ブレイクの兆しはない。実際、トニーが唯一大ブレイクしたのは、まじめに働く夫の真似をしようと決めたときだった。
そう、彼は結婚して、5分も経たないうちに家族を持ったんだ。だから事実上、彼はバンドを去り、ダグもリード・ギタリストのマイクも去った。
プロになるのは簡単なことじゃない。
僕とデイヴィッドとロドニーはすぐにバリーのドラマー、イアン・ウォレスを見つけた。
そして、ボルトン出身のとても若いキーボード・プレイヤー、彼の名前は何だったかな、そうだ...ブリッサム・チャッツロブだ。
彼は「グリーン・オニオン」が弾けたので加入した。彼はハンサムだった。長年にわたって、彼と一緒にいるときほど笑ったことはない。
「戦士たち」は魅力的な人生を送っていた、
ビジネスという点では、僕たちは何も考えていなかった。自分たちが何をしようとしているのか、どこへ行こうとしているのか、まったく見当がつかなかった。しかし、オレンジ色のバンに乗って旅をし、音楽を作り、騒乱を起こし、一般的に迷惑をかけるというカオスと気ままなツアー生活を楽しんでいた。
それからの数ヶ月間、僕はマラカスを習った。お尻を振り回し、声を枯らすまで歌を叫び、女の子を追いかけ、たくさん酔っぱらって、パーティーをして、世界を旅した。まずスコットランド、ウェールズ。そしてドイツ、それが次の目標だった。ビートルズの道をたどってヨーロッパをツアーして演奏するんだ。
1966年だった。初の8時間ライヴをやったんだ。ケルン、フランクフルト、ミュンヘンの酒場クラブで2週続けて、血まみれの奴隷労働でクレイジーで狂気だった。僕たちはとても幸せで、酔っ払っていた。ハッシュ、マリファナ、そして最終的にはLSD。すごいな!もしポールがLSDを飲んだら、僕もそうするだろう。
66年、67年という素晴らしい年月。どこもかしこも音楽だらけ。フランク・ザッパ、ビーチ・ボーイズ、それから現代音楽における最大の出来事「サージェント・ペッパー」、そしてジミ・ヘンドリックス。信じられないような時代だった。
1967年リード・ヴォーカルをとるようになったジョン
67年末、僕はヒッピーだった。平和とか愛とか、そういうものを追い求め、いつも笑顔を絶やさず、恐怖を隠し、ぼーっとしていた。
ある朝、僕はウォリアーズを離れた。彼らはもうリハーサルをしない。彼らは僕に「消えろ」と言ったんだと思う。
僕は音楽的な夢があると言い続けたが、彼らは「ジョン、失せろ、俺たちは寝てるんだ」と言った。
それでミュンヘンに行き、NORA'S CUPBOARDで2ヵ月間暮らしたんだ。
楽しかったし、迷いも感じた。ある晩、そこのパーティーでジミ・ヘンドリックスと床に座って一緒にマリファナを吸ったこともある。
僕は彼に夢を語った。彼はただ美しい微笑みを浮かべた。
一時期、僕は夢をすべて失ったように思えた。
そう、僕はどこかにいて、道に迷い、孤独で、口うるさいことが絶えなかった。なぜ僕はここにいるのだろう、そんなことを考えながら、僕は「手がかりのないヒッピー」のようにさまよっていた。僕は幸せなふりをした。しかし、誰もそれを信じなかった。だから僕はそこにいて、 世界に取り残された。
ある夏の午後、ミュンヘンのイングリッシュ・ガーデンで花を摘みながら、なぜこんなところに、なぜ僕はここにいるのだろう?と考えていたら、突然、ある声が僕に語りかけた。「ジョン、本当に重要なことなんて何もないんだ」そうだった。僕の周りには誰もいなかった。
僕は飛び起き、「ノラ」のアパートに駆け戻り、ドアを開けた。ドアを開けると、そこには一通の電報があった、
手に取ると、それは母からのものだった。「フランクフルトの近くに住んでいるバンドが、あなたに連絡を取ろうとしています!すぐに電話して」
誰かが「僕」を求めていた。「僕」を必要としていた。それがずっと僕の問題だった。僕は役立たずで、とてもとても孤独だと感じていた。
僕は荷物をまとめ、1時間以内に電車に乗った。
それからの3ヶ月は本当に素晴らしかった。彼らは本当に歓迎してくれた。彼らは僕のアイデアを求めてきた。
一緒にショーをやって、ドイツでギグを始めたんだ。R&Bやプログレッシヴ・ライクな曲を演奏して、僕はアルト・サックスも吹いていた。下手くそだったけど、楽しかった。
それから「ブライサム・チャッツロブ」のブライアン・チャットンから電話があった。ロンドンはすごく盛り上がっているから来いよと言われたんだ。
ドイツのシュヴィネフルトからロンドンへ向かう列車に乗ったのは68年のことだった。昔の映画に出てくるような気分だった。
(ジョン・アンダーソン 2010年)
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